1968年のバイク世界一周旅行

あの頃(1964年~68年)私は、 人には、人の数だけの人生がある。 しかし、人生は一度だけである。 この世に生を受けた一人の人間、 私の経験ですが、 今、人生に立ち向かっている 若者たちが生きていく上で、 何かヒントとして、少しで役立てたら幸せです。 また、同じ時代を生きた人々には, あの頃、何をしていたか 思い出しながら、読んで戴ければ幸いです。 宇宙の年齢は138億年。 それに比べ人間の寿…

1968年のバイク世界一周旅行

その2 一回しかない人生、当たり前のように、 年を取り、ただ「未知への旅立ち」を待つのは、 私にはできない。 77歳の私は、今も日々、 時間つぶしと、少しはボケ防止にと、 何をすべきかと、 常に前向きに考え、 実行に移すことにしている。 時間は待ってくれない、 時間と頭の使い方、思考は経験に基づくもの、 人生の結果は、日々の生き方次第である。 若き日、経験した諸々の出来事が、 走馬灯のように、 …

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その3 疎開先近くには 特攻隊の基地があった。 米軍機の空襲で焼け野原になった街、 食糧難で栄養失調になった子供時代、 実経験として、記憶は鮮明である。 学業成績が悪く教師に無視され、 心身とも壊されそうな制度的に 強制された義務教育という名のもと ダダ機械的に登下校を繰り返した 嫌な日々の記憶も鮮明だ。 大学、ろくに出席もせず、 実社会へ出て行った。 就職、有名大学出の社員には入社と同時に、 …

1968年のバイク世界一周旅行

その4 中学生時代、エコ引きする嫌な教師がトラウマとなり、 学生時代は勉強もせず、 小中高と同級生の中でも存在感もなく、 将来の夢も描けず、大学も漠然と入り、 登校もせず映画館、パチンコ屋へ入り浸り、 閉店の「ホタルの光」の曲とともに追い出され、 疲れ切った額に脂汗をにじませ、 パチンコに夢中のため、 昼飯抜きの空腹感が襲い 小銭が残っていないかと、ズボンのポケット中を手探りしながら、 人気のな…

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その4 中学生時代、エコ引きする嫌な教師がトラウマとなり、 学生時代は勉強もせず、 小中高と同級生の中でも存在感もなく、 将来の夢も描けず、大学も漠然と入り、 登校もせず映画館、パチンコ屋へ入り浸り、 閉店の「ホタルの光」の曲とともに追い出され、 疲れ切った額に脂汗をにじませ、 パチンコに夢中のため、 昼飯抜きの空腹感が襲い 小銭が残っていないかと、ズボンのポケット中を手探りしながら、 人気のな…

1968年のバイク世界一周旅行

その5 1963年11月23日、日米TV衛星中継実験。 第一報はTVケネディ大統領(JFK)暗殺であった。 その翌年(1964年)は東京オリンピック開催と海外渡航自由化が控え、 世の中、活気に満ちあふれていた。 工場から容赦なく吐き出される排気ガスに 覆われた街のビルは霞んで見え、 国民のほとんどは、 それが健康を害する影響する「公害」という 言葉も知らず(知らされていなかった?)、 「過労死」…

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その6 留学への道は米国政府援助のフルブライト留学と、 外務省の留学試験以外なく、 その上、米国領事館は留学ビザ取得に 入学許可書(I-20)を要求、 その困難な手続きをしながら、 睡眠三時間で中学校三年間の英語教科書と悪戦苦闘の一年間。 だが、勉強は人に強制されるものでなく、 目的があれば楽しくもあり、能率も上がる ことを知った一年でもあった。 1964年4月、外務省私費留学試験合格。 その時…

1968年のバイク世界一周旅行

その6 1964年7月2日出発、 私は24歳だった。 羽田・ロサンジェルス間の航空運賃は 片道約14万8千円だった。 今の貨幣価値で約150万円と、 想像を絶する高い航空運賃だった。 蓄えも少なく、 たった100ドル($1=¥36,000、初任給¥20,000時代)を懐に 28人乗りDC3プロペラ機で大阪から羽田へ。 そこからJLのDC8機で飛び立った。 羽田をたったのは夜の9時ごろだった。 3…

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その7 ホテルは、出発前、神戸の米国領事館で教えてもらった 日本語の通じる小林ホテル(ワイキキ・グランド・ホテル)、 と決めていた。 外国人と話したこともない私は、 空港からホテルまでのタクシーに乗るだけでも、 怖く、緊張し、話しかけるてくる運転手に 英語がわからず、ただ、「I see」の連続だった。 ホテルはホノルル動物園の前にあった。 タクシー料金は$4.50。 そのころの日本人の、ほとんど…

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その8 食事代は$1ぐらい、 日本で稼ぐ一日のバイト代ほどの 高さであった。 ウェイトレスは、チップなるものを請求した。 チップにいくら払えばいいのかもわからず、 ポケットから小銭を出し、テーブルに並べると 彼女は、一番大きい形をした25セント・コイン をつまみ上げ、エプロンのポケットに ポイッと愛想笑いをしながらほり込んだ。 今も、このチップ制度を頑なに守っているアメリカ・・・。 もういい加減…

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その9 ロサンジェルス空港に到着。 当たり前のことであるが、周りは皆アメリカ人。 英語が話せず、緊張で胃が痛んだ。 日本人留学生はリトル東京、日本人町のレストランで 皿洗いをして生活費を稼ぐと、 何かで読んだ記憶に従い、 うろたえ、動き回り、 やっと「リトル東京」へたどり着けるバスを見つけた。 バスは四車線、五車線もある見たこともない 広く、大きいフリーウエイを経験したこともない スピードで走っ…

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その10 九月からの学費、生活費を稼ぐ必要に迫られ、 ホテルの日系老経営者に事情を話すと ガ―ディナーのヘルパーは金になると言う。 ロサンジェルス一帯のアメリカ人の庭を 手入れするのが日系ガ―ディナーの生業であった。 夏場は芝生の伸びが早く、ガ―ディナーの需要も多く、 ヘルパーを雇っていた。 当時、日本の日給が約¥500であったが、 ヘルパーの日給は$15(当時のレートで¥5,400)と、 日本…

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その11 昨日(2017年5月19日)は、 カッコよく言えば、 私がバイクで世界一周へロサンジェルスを出発して 50周年の記念日だった。 しかし、そんなことなどすっかり忘れ、友人と五月晴れの下で ゴルフを楽しんでいた。 話を元に戻そう。 デラノのバス・ターミナルで、三十分ほど待っていると 小型トラックが止まり、四十代後半の浅黒く日焼けし、 長い髪を後ろに束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿の…

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その12 寝泊まりは 白ペンキがあっちこっち剝げた 粗末な掘立小屋で、 「ギイ・ギイ」と、錆びた音のするスプリングの利かない 埃をかぶった古いベッドの六、七個あり、その脇に小さな机と、 その上に電気スタンドがあった。 窓は一つしかなく、 昼間でも部屋の中は薄暗く、 天井から裸電球が一つぶら下がっており、 映画で見たアウシュビッツの強制収容所のようで、 最初は薄気味が悪かった。 だが、日本では扇風…

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その13 私の小屋には先客がいた。 日本語は少しわかるという 七十歳ぐらいの朝鮮人で、 数日前、小屋の入り口の階段を踏み外し 足を怪我したと言い、包帯をぐるぐる巻きにして ベッドで横になっていた。 彼は子供の時、 父親とアメリカへ密入国、 季節労働者として カリフォルニア各地の農園を 季節労働者として転々としていたようだ。 正規の移民でもなく、年金ももらえず、 今も働いていると言った。 この農園…

1968年のバイク世界一周旅行

その14 朝食が済むと ジョージの運転するトラックの荷台に全員乗り込み、 全員といっても十数人だったが、 葡萄畑の農道を もうもうと砂塵を上げながら、 猛スピードで東走り出した。 トラックの荷台は 夜明けの冷たい風をもろに受け 歯が合わないほど寒かった。 葡萄畑のはるか地平線に 太陽が昇り始め、 鮮やかな赤色に染まった セコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が 東に小さく輝いていた。 トラックは十分ほ…

1968年のバイク世界一周旅行

その15 葡萄畑には夜間、 たっぷり水が撒いてあり 足元は泥んこになっていた。 作業に慣れない私は 葡萄の蔓を抱えたまま 何度もひっくり返り、シャツもジーンズも あっという間に泥んこになった。 この作業を一時間も続けていると 腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど疲れた。 労働者を管理するジョージは トラックの上から我々を監視し、 「さぼるな!」と、大声で怒鳴った。 時間の経過とともに 上からは…

1968のバイク世界一周旅行

その16 夏時間のカリフォルニアは 八時を過ぎても明るかった 夕食が終わると、 サムの娘たちは事務所前で 即席の売店を開き、労働者相手に  ビール、タバコ、コカ・コーラなどを 売りはじめた。 年老いた労働者たちは夕食を済ませると 夕涼みを兼ね、売店の周りに集まり、ビールを飲みながら、 娘たち相手に、英語交じりの日本語で、 たわいない会話を楽しんでいた。 老人たちは、大正の末期から昭和の初期にかけ…

1968年のバイク世界一周旅行

その17 葡萄畑に囲まれた農園は 休日だといっても、 車がないと孤島で動きが取れなかった。 時間が有り余るほどの休日、 洗濯して時間つぶしする。 洗濯場は小屋の外にある、コンクリートの流し台でした。 日本では、ホテルなど特別な所でないと 蛇口から湯は出ない時代だったが、 アメリカではこのような農園でも 大きな蛇口から惜しみなく出る湯に アメリカの豊かさを感じた。 洗濯物はロープを張って干すと 夏…

1968年のバイク世界一周旅行

その18 その日、食堂で、一日遅れでロサンジェルスから配達され日系新聞「羅府新報」に「ガ―ディナーのヘルパー求む、 比嘉ボーディング・ハウス」と広告があった。 ボーディング・ハウスとは下宿屋のことである。 すぐ、そのボ―ディング・ハウスに電話すると ヘルパーの日給は$15だと言う。 葡萄農園にいても九月からの生活費、 学費も稼げそうもないので、 サムに事情を言って、 ロサンジェルスへ引き返すこと…