1968年のバイク世界一周旅行

その19


大体、ガ―ディナーの仕事は、
一軒の庭を一人でやれば一時間かかるが、
二人でやると
その半分の三十分で終わった。


一日、何軒の庭を手入れするかで
収入も違ってくるので
ガ―ディナーは皆仕事が速かった。


アメリカの平均月収が五百ドル前後の頃、
ガ―ディナーは、九百ドルほどは稼いでいた。
バイトの収入が一日、約十ドルであったが
ガ―ディナーのヘルパーの稼ぎは、十五ドル前後と
良いバイトであったが、
汚い仕事と思われていたのか、
アメリカ人や米国生まれの若い日系人など
見向きもしないバイトだった。


下宿人は男性ばかりで、
女性は数人の日系の賄い婦だけだった。


同じころ、あの有名な冒険家、植村直己も、
私同様、カリフォルニアの農園で働いた後、
ここに下宿し、
ヘルパーをして稼ぎ、モンブラン単独登頂を目指し
フランスへ旅立ったと聞いたが、
同じ下宿屋にいたのなら、
顔ぐらいは合わせたかもしれないが、
記憶にはない。


デラノの葡萄園から
ロスアンジェルスへ戻り
約四十日間、土日も朝七時から
夕方七時まで働き、
日本の年収の半分、五百ドル近く稼いだ。
これで半年は食いつなげるとホッとした。


九月、夏休みも終わり
大学の入には英語が必須と
州立の英語学校へ入学した。


学校は午前と午後の二部制で
午前中、学校へ行き、
午後はバイトしようと目論んでいたが
午後の授業へ回された。


午前中のバイトなどなく、
下宿の主人、比嘉さんに頼んでいたら
墓の仕事だが行くかと、申し訳なさそうに聞いた。
墓であろうが何であろうが、
私には午前中、働ける仕事はありがたかった。


墓は下宿屋から徒歩で十分ほど、
Venice BlvdとNormandie Ave.の角にある
ローズ・ディル・セメタリーへ出かけた。


墓は赤レンガの塀に囲まれ、
大きな入り口から奥へ
アスファルト道路が細く
枝分かれしていた。


見渡す限り、芝生の中に大小の墓石が整然と並び、
周囲には色鮮やかなハイビスカスが
咲き誇っていた。
高々と伸びたパームツリーの葉は
爽やかなカリフォルニアの陽光を浴びて
風にそよぎ、
車の騒音も人影もなく
静寂だけが支配する
公園のような墓地であった。