bluespring77のブログの新着ブログ記事

  • 1968のバイク世界一周旅行

    その106 ふと思い出した。 ロサンゼルスを出発して、東へ走っていくと 当たり前のことであるが、だんだんロサンゼルスが遠のいていった。 ニューヨークに着き、そこから船で大西洋洋を東へ行き リスボンへ向かった。 そのあとヨーロッパ中を回り、 東へ中近東を目指しボンベイに着いた。 ボンベイから船に乗り... 続きをみる

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  • 1968のバイク世界一周旅行

    その105 ここでは、私の1960年代の米国留学と バイク世界旅行の記憶をブログにしてみた。 書き始めた理由は、 amazonから著書「1968年のバイク旅行」の注文があったが、 500部しか刷らなかったので在庫がなくなり、 ブログで書くことにした。 年金暇人の身、時間はたっぷりあるので 暇つぶし... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その104 人には人の数だけの人生があり、 どう生きるのが最も良い生き方かは その人の価値観によるので、 どの生き方が一番良いとは言えない。 しかし、一般的には、人は少しでも人より 豊かな生活をしたいという 願望は持っていると思う。 私が就職して感じた差別感というか、 失望、後悔は、有名大学出身の... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その104 しかし、私の1964年から68年までの米国の学校と仕事 の日々の生活のことが最も印象深く、 バイクで世界一周旅行は、 4年間の米国生活の卒業旅行的なもので、 偶然というか、たまたま、予算の関係でバイクを交通機関として使った旅行で、大げさにバイク世界旅行の部分を書くには勇気が必要だった。... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その103 おだてられ、ホイホイと1960年代の米国留学と バイク世界一周旅行について、 記念にと500部自費出版したが、 「人生の途中下車」というタイトルが悪かったのか、 タダで差し上げようと決めていたが 「読んでやる」という人は、ほとんどいなかった。 自己顕示欲が弱いのか、気が小さいのか、謙虚... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その102 二年ほど前、旧友との飲み会の席で、 お互いの若い時の話が出始めた。 私の番になった。場の流れで1964年米国留学し、 帰国の際、バイクで世界を観て回ったことを口にした。 私にしては、自分の経験など、済んだ過去のことで、 気の抜けたビールの話をするような気分であったが、 米国留学とバイク... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その102 旅の仕方にもいろいろある。 飛行機、鉄道、船の旅は快適さ、時間の節約 と利点はあるが、 自分の意志通り、自由に移動できない欠点もある。 バイクの移動は事故の危険もあり、 一般的に移動は昼間であり、 観た旅の風景は、出発地から到着地まで、 途切れがないという利点はある。 飛行機や鉄道の旅... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その101 香港に寄港し、町をぶらついていると、 前から来た中年の男性にとすれ違った途端、 その男は小さなビンを落とした。 ビンは割れ、中身の水分は道に流れ失せた。 その男性は、私が彼の体に接触したのが、 原因で病の娘のため、買ってきた高い飲み薬だ、 どうしてくれると、大声で怒鳴り始めた。 私は彼... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その100 フランス船「ラオス号」のボンベイ・横浜間の運賃は 約6万円で、当時の日本の平均月収ほどだった。 ラオス号には、マルセイユなどから乗り込んだという ヨーロッパで知り合った多くの日本人若者が乗っていた。 ニューヨークから大西洋を横断してリスボンまで乗った ギリシャの豪華客船と違い、気取った... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その99 ボンベイに着いた私は、帰国の船に乗るだけであった。 もう私には地図を広げ、道を確かめる必要もなく、 砂漠の中で車に遭遇することは、 強盗に逢うかもわからないので怖く、 時折、砂丘に上り、砂煙を上げ近づいてくる車を 確認していたが、それも必要なかった。 砂丘の上に立つと360度、視界は広が... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その98 1968年12月11日、道路という道路は人、車、白い牛、 それに「バクシーン、バクシーン」と手を伸ばし、 どこまでも、どこまでも、まとわりついてくる物乞いの子供たち、 それに自転車の後部に客席を付けた輪タクなどで 身動きもできないほど混雑しているボンベイ市内に入った。 タージ・マハルで出... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その97 タージ・マハルで一人の日本人ヒッチハイカーから 12月15日、日本行きのフランス客船が ボンベイ(現ムンバイ)に入港する情報を得た。 旅の途中で、ボンベイまで行けば日本行きの船があると 聞いていたからボンベイを目指していたが、 その船の入港日までが確実だと知り、 今までは、ただ、日々のバ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その96 ボンベイ 走行三万キロ インドに入ると道路には人と白い牛があふれ、 思うようなスピードで走れなかった。 茶店で休んでいると、ボロボロの衣類をまとった大人や子供が バイクを囲み、何か雰囲気のおかしい動きをしているのが目に入った。 私は飲みかけのティを置き、バイクへ走って戻ると、 彼らはバッ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その95   私のバイクは傷みが激しく、売れるようなバイクでなく、 一瞬、パキスタン・インド国境で捨てようかと思ったが、 ロサンゼルスからインドまで走ってきた バイクに愛着が湧いてきた。 そこで、インド国境係官の責任者に強引に会わせてもらい、 再交渉することにした。 すると、この責任者は、私がパキ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その94 インド国境 入国不許可 イラン、アフガニスタンと砂漠地帯を走ってきた私は、 一応、町も区画され道路も整備され、 街路樹もあるペシャワールに着いたときは、正直ホッとした。 ペシャワールよりも驚いたのは、 パキスタンの首都イスラマバードの町だった。 1961年から建設が始まったという この巨... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その93 通過した中近東の国々では、トイレを借り、 日本語の新聞を読むため、必ず、日本大使館を訪れた。 これらの国々では、現地の建物や暮らしぶりに比べ、 日本の大使館は立派すぎ、 私が強盗に襲われたのも無理はないと思った。 空っ風が紙くずや砂塵を舞い上げる、カブールの市内の道路は 舗装がはがれ、自... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その92 西のヘラートから南へ、米国の援助で作られた砂漠のハイウェイを アフガニスタン第二の都市カンダ―ルへ向かった。 そこから北へ向かうと首都カブールである。 当時、私が乗っていた乗っていたヤマハYM1のバイクは ガソリンとオイルを混ぜた「混合」が燃料であった。 イランでは「混合」の給油の場所も... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その91 いつものことであったが、 集落に入り道端で休憩していると、 バイクや外国人である私が珍しいのか、 子供や何もすることがないのか、大人までが私を見世物のように 遠巻きに囲み眺められた。 日本でも江戸末期から明治初期、 外国人が日本の地方を旅していると 同じように、子供や大人までもが、その外... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その90 無法地帯のに住む、アフガニスタンの人々は銃を作るか、 カードなどギャンブルをするしか、 収入源がないとその若者は言った。 危険だから、暗くならないうちに、 この無法地帯を離れた方がいいという 彼の忠告に従い、急ぎその場を離れることにした。 走りながら高台に目を向けると、十代前半と思われる... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その89 テヘランではめったに見かけなかったが、 メッシャドの女性はほとんど頭から足の先まで すっぽり黒い布(チャルド)で覆っており、 顔の判別も出来なかった。 近くで見るとチャルドは、思ったより厚めの布でできており、 暑くないのかと、他人事ながら気になった。 いよいよアフガニスタン入りである。 ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その88 体を洗ったのは、テヘランの街角の水道で洗ったのが最後、 水のない砂漠では、一週間も体を洗わない日があった。 慣れとは、恐ろしいもので歯も磨かず、体も洗わない、 茶店ではハエがティ・コップの周りに群がり、 ティとともに飲み込んで、それを吐き出すことが、 当たり前のようになったが、 いつの間... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その87 物の本などを読むと、シルクロードは崇高なものと 表現されているが、 私にとっては、ロサンゼルスからインドまでの、 過酷な道に過ぎなかった。 来る日も、来る日も、砂漠の砂塵を浴びながらの過酷な道で、 書斎でおいしいコーヒーを飲みながら、シルクロードの本を読み、 シルクロードを想像する人とは... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その86 イギリス、ドーバーのフェリー乗り場で、手に入れた 詳細な地名が記載されていない地図であったが、 イランの砂漠を走っていても、必ず100キロ以内に「食物屋」と 「油屋(ガソリン・スタンド)」があることを知った。 砂漠では、イスラム教の式典に使われたものであろう思われる 古い煙突のような塔を... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その85 悪戦苦闘しながら、どれくらい走っただろうか。 砂道の脇に屋根を太陽を遮るように、 むしろで覆った小さな掘立小屋があった。 周りには、この小屋以外、建物はなかった。 何となく「食堂」のような感じの掘立小屋であった。 私はバイクを停め、中にいたターバンを巻いた 中年男に確かめると、 「レスト... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その84 テヘランから東へ走り出す。 目指すはアフガニスタンである。 テヘランの町を一歩郊外に出ると あの近代的な都市がウソのように、 そこから先は水平線まで砂、砂だけの砂漠であった。   この先、本当に町がるのだろうかと不安になった。 確かめるために地図を広げると、 ボールペンでなぞったような線... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その83 砂漠と強盗のイラン・アフガニスタン越え イラン・トルコ国境でハシシ(麻薬の一種)を所持していた ヒッチハイカーが逃げようとして、 イラン国境警備兵に射殺されたと聞いていたが、 粘土造りのイラン国境検問所の、簡素な部屋で簡単な入国手続き終えると、 私は兵士たちに紅茶やタバコなど、 親切なサ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その82 季節は10月末になっていた, 黒海沿岸の町サムソンに 近づくにつれ雨風が強くなった。   黒海沿岸の風景は、冬の日本海沿岸のように鉛色に覆われ、 海は荒れ、びしょ濡れの私は、寒さに震えながら走った。 サムソンから黒海に沿って東へ、トラブゾンまで約340キロ、 対岸はソ連かという感慨を抱く... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その81 雨と寒さのトルコ横断 ヨーロッパ側とアジア側に挟まれた ボスボラス海峡には、まだ橋は架かっていなかったので、 フェリーで渡りアンカラを目指した。 車もほとんど走っていない、トルコ高原を東へ一直線に 貫いている道路を気分良く走っていると、 突然、牧草地から牛がゆっくりとした足取りで 道路へ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その80 イスタンブールに着いた。 この町はボスボラス海峡を挟んで ヨーロッパとアジアの二つの雰囲気に囲まれたところで、 モスクやバザール、ヨーロッパ人とアジア人と、 ヨーロッパとは、また、違った雰囲気、景色というか、 アジア的匂いを持った町であった。  この雰囲気は、ユーゴから山越えをしてギリシ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その79 中近東への出発 ヒドラ島からアテネのYHに戻った翌日、 横浜のKがドイツで買ったという中古車ワーゲンに 二人の日本人学生を乗せて着いた。 ドイツで知り合った三人は意気投合して この中古車でインドまで行くと言った。 イスタンブールへ出発する日が来た。 そのころヒッチハイカーの間ではイスタン... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その78 彼女は、当時、英国で五本の指に入るという 画家の奥さんであった。 画家の主人は四十歳半ばで、あごひげを伸ばし、 麦わら帽子に半ズボン姿で、ヨットの甲板をホースで洗っていた。 奥さんは、いかにも関西の中年オバちゃんという、いで立ちで、 ヨットにロープを張り、洗濯物を干しながら、 我々に声を... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その77 エーゲ海 ヒドラ島での休暇 ギリシャに入ると、オリーブ畑に囲まれた道路は舗装になった。 南下するにつれ天気は良くなり、アテネに着いたときは晴れていた。 私はYHに荷を解くと、早速、船会社に行き、 ニューヨークからリスボンに着いたとき、 船会社が私のバイクをリスボン港で下ろすのを忘れ、 私... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その76 アドリア海に沿って南下を続け、 ユーゴスロバキアとアルバニアの国境に着いた。 実際は情報不足の時代で、アルバニアの国境に着いた とはわからなかった。 目の前に川があり、長い橋が架っており、 橋のたもとに「アルバニア」と、 英語の立て看板があったので分かった。 橋の中央に銃を抱えた兵数人が... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その75 ユーゴスラビア(現クロアチア) 当時、ユーゴスラビアは社会主義国家で、 私は「鉄のカーテン」と呼ばれえていた ソ連の社会主義国家と同じものだと思い込んでいたので、 どこからか秘密警察が外国人である私を 監視しているのではないかという、不気味な不安感と 恐怖感を抱きながら入国した。 入国す... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その74 バルカン半島を南下、ギリシャへ 食事を摂っていると、この地方の小さな新聞社の記者だという 中年の男が自転車でやってきた。 彼女の出したコーヒーを飲みながら、 記者は1時間ほど、私の米国留学やバイク旅行を始めた動機について聞き、明日の新聞に載せるからと言って去って行った。   記者が去った... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その73 体調が良くなった私は、デンマークのヘルシンゲルから フェリーで狭い海峡を越え、スウェーデンのヘルシンボルへ渡り、 スウェーデンの西側を走り、ヨーテボリを通り、 白樺の森が続く中を北東へ走り続けた。 9月に入っていたが、日本の感覚では、 まだ、夏だと思っていたが、 急に日が短くなり、白樺の... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その72   二人と別れた私はミュンヘンからハンブルグ、 ルーベックを通過し、さらに、その北ブットガルテンから フェリーでバルト海を渡り、 デンマークのレズビュハウンに着いた。 そこから農業国らしい広々とした田園の中を コペンハーゲンを目指し走った。 デンマークといえば、 アンデルセン童話「人魚姫... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その71 ミュンヘンのビャホール ミュンヘンのYHでチェック・インしていると カナダをヒッチハイクして、今はヨーロッパを観光中の、 ローマのYHで出会った横浜のKが目に入ったので 声をかけると、ウィーンで別れた 水戸のMKと夕食を摂りに出かけるところだった。 KとMKは初対面だったが、 日本人の旅... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その70 スイスのツェルマットからウィーンまでは約600キロ、 高速道路を走れば、一日で行ける距離であるが、 バイク旅とはいえ、ただ、闇雲に走っても面白くない。 二度と来ない素晴らしいところもあるかもしれないと 一般道を走ることにした。 九州や四国ほどの小さな国、スイスから 東西に長く伸びるオース... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その69 翌朝、このYHで朝食を摂っていると、 「オジさんじゃない?」と、 二十歳前後の日本人女性が声をかけてきた。 28才の私に 「オジさん」とはと、一瞬、驚き、あっけにとられたが 彼女は初対面ながら、にこやかに嫌味のない女性で その自然な振る舞いに私は好感を持った。 彼女は、私がバーゼルのガソ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その68  スイス、ツェルマット 今なら、誰でも知っている、マッタ―フォルンの登山口 ツェルマット。 当時、私はそれがスイスのどこにあるか知らなかった。 マッタ―フォルンが美しい山であることは 写真などを見て知っていたので、 是非行ってみたいと思っていた。 人に聞きながらBrigの町から、登山電車... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その67 夕立がやみ、虹のかかったライン川を渡ると スイスのバーゼルだった。 バーゼルはフランス、ドイツと国境を接する スイスの第三の都市である。 スイスは九州より少し大きめな国である。 バーゼルはもとより、スイスに入った途端、 今まで通過した国々では、見たこともない絵葉書をから 抜け出したような... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その67 列車がハンブルグ駅に着くと、私は緊張がほぐれ 疲れがでて、ぐったりとしていた。 改札口を出ると、構内の壁に飾ってある、 小さなピカソのデッサン画が目に入った。 それは闘牛士が闘牛と戦っているデッサン画であった。 近くで見ると、闘牛は点のように、 闘牛士は、マッチ棒のようにしか、見えなかっ... 続きをみる

  • 1986年のバイク世界一周旅行

    その66 その部屋の横には、静まり返った 体育館のような広い部屋があった。 二人の兵隊の一人が、私を連れ出し、 その部屋の片隅にあるベンチに、座れと言って立ち去った。 私は、この先どうなるのだろうかと、不安を抱えながら 肩を落とし、しゃがみ込むようにベンチに腰を下ろした。 十分ぐらいだっただろうか... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その65 東ベルリンでの出来事 安ホテル前の駐車場にバイクを置き、 航空運賃は10ドルを払い、ハンブルグ空港から パン・アメリカン航空で西ベルリンへ出かけた。 当時1ドルは¥360であったから、 ¥3,600払ったことになる。 現在、ハンブルグ・ベルリン間の航空運賃は 約140ドルである。 50年... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その64 翌朝、外へ出るとYHの周りは 「飾り窓(売春宿)」が軒を並べていた。 そのあと、いろいろなYHに泊まったが、 このYHの周りのことは、ヒッチハイカーの間では 有名な話でよく話題に出た。 アムステルダムは「アンネの日記」でも有名な街である。 アンネ一家八人が、ナチスの迫害から逃れるため 1... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その63  1968年当時、ベルリンは東ドイツ領内で 東西ベルリンに分断されていた。 外国人は東ベルリンへ入ることができと聞き 是非ベルリンに行こうと決めた。 ダンケルク、アムステルダム 数日間、ロンドン観光に費やしやした後、 再びドーバー港からフェリーでカレー港に上陸、 東へ旅を始めた。 ドーバ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その62 ロンドン ル・アーヴァルから約三時間、 フェリーに乗っている間、船員に頼み込み、 びしょ濡れになった体をエンジンルームで温めながら、 衣類を乾かした。 ド―バー港から一気にロンドンへ向け走り出したが、 日が暮れ途中のB&Bに泊まることにした。 久しぶりに英国訛りだったが、B&Bの女主人の... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その61 ルーブル美術館の前で、カリフォルニアに住んでいたという フランス人男性が私のバイクのプレート・ナンバーを見て 話しかけてきた。 私がフランス人は英語を話さないので、 レストランでは、オムレツばかり食っていると、愚痴ると、 彼は「フランス人は自分の国に誇りを持っており、英語で話しかけられる... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その60 フランス、オムレツ、オムレツ 早朝、バイクの衝突音で家々から 人々が飛び出してくるのがわかった。 そして人々が私を道路脇へ運び、 大丈夫かと、口々に声をかけながら介抱てくれた。 私は、しばらく事故のショックで口もきけなかったが、 三十分ほど横になっていると気分も良くなったので、 バイクを... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その59 フランスの国境を越え、 スペインン第二の都市バルセロナへ入った。 テレビのCMなどで有名な、アントン・ガウディが一八八二年に設計した、サグラダ・ファミリア教会がまだ建設中で、 寄付を集めながらの工事で、いつ完成するかわからないと 町の人は言っていた。 街角で絵を描いている老人を後ろから眺... 続きをみる

  • 1968年のバク世界一周旅行

    その58 地中海に沿って 私はフランス南部、一般道路を地中海に沿って西へ向かった。 道路は狭い一車線か二車線で、カーブが多く、 片側は地中海で反対側は小高い丘が続き、 赤瓦の高級住宅や別荘が点在し、 アメリカのウエスト・コーストに似た風景であった。 暑い七月、バカンスシーズンが始まったらしく、 狭... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その57   ピザの斜塔は大聖堂の鐘塔として、一一七三年工事にかかったが、 十メートルほど建設したところで、傾き始めたが造り直しもせず、 そのまま建設を続け、約二百年後に完成したそうだ。 何故、造り直さなかったのかと、チケット売り場の係員に聞くと、 本当かどうかはわからないが、 造り直したら経費が... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その56 フィレンツェからピザへ ローマ観光に二日ほど費やした後、のどかな田園地帯を北へ三百キロ、車道から脇道へ細い農道を上がると、 葡萄畑に囲まれた小高い丘に、フィレンツェのYHはあった。 朝食は葡萄棚の下に並べられたテーブルで摂り、デザートは葡萄を適当に取り食べることのでき、旅の中でこのYHは... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その55 アフリカ大陸行きをあきらめ、 ナポリから北へローマを目指すことにした。 本格的なヨーロッパ・ツーリングの始まりだった。 地図を見入ると、ナポリ・ローマ間は、たったの二百キロで、 アメリカ大陸を横断した私には、非常に短い距離だった。 葡萄畑やオリーブ畑などの中を通る、 イタリアの高速道路E... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その54 ナポリからヨーロッパ・ツーリングへ 空港からタクシーを飛ばし、ナポリ港へ行った。 ちょうど私のバイクを乗せた客船が接岸中で、 ナポリ支社には、すでに連絡が入っており、 入管手続きは簡単に済んだ。 当初の大雑把な計画では、イタリア南部から船でエジプトへ渡り アフリカ大陸の北部を西へ向かうつ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その53 リスボン バイクはナポリへ 「チン、チン、チン」と、心地よい音に、私は目覚めた。 ベッドわきの窓を開けると、向かいの建物に挟まれた狭い石畳の坂道を電車が下っているのが目に入った。 雲一つない紺碧の空、朝日が前の建物に反射して、 二階にある私の部屋へ射し込み、気持ち良い、 さわやかなリスボ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その52 リスボン バイクはナポリへ 一九六八年六月十八日の深夜 ニューヨークを出港して八日目、リスボンに入港した。 下船手続きは終わり、 私のパスポートはだけが、客船の下船口、臨時の入管事務官のデスクにポツンと忘れられたように置かれていた。 私が彼に問いただすと、ポルトガルのビザがないので 下船... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その51 ヨーロッパへ 大西洋航路 ニューヨーク港を出港してすぐ、ロビーに夕食のメニューと、 円形テーブルの指定席表が張り出された。 食事は、いつも同じテーブルの指定された席と決められていた。 どのテーブルも、八人ほど座れる大きさで、 家族連れは家族連れ同士、夫婦連れは、夫婦連れ同士で 座るように... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その50 ヨーロッパへ  大西洋航路 ポルトガルのリスボンまで、ギリシャ船籍の豪華客船で行くことになった。 当日、一九六八年六月十日、 出航は夕方であるが、接岸ピア(港)が多く、私の乗る客船が接岸しているピア(港)62を探すのに時間がかかるだろう思い、 昼食を済ませると、すぐ接岸しているピア(港)... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その49 一九六八年六月十日 四年間住んだアメリカを離れる日が来た。 もう五十年の前のことで正確な数字は忘れたが、 バイクでアメリカ大陸横断に要した費用を計算してみた。 間違っておれば訂正をお願いする。 走行距離:      ロサンジェルス・ニューヨーク            5,500km 使用... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その48 リスボン行き客船の予約を済ませた後、バイクの最終整備をするため、ハドソン川の下にあるリンカーン・トンネルを抜け、 ニュージャージー州のチェリーヒルのヤマハ工場へ行き、 その日は、チェリーヒルのモーテルに泊まった。 翌朝、六月八日、ロバート・ケネディの葬儀を見るため、 ニューヨークへ。バイ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その47 アメリカ横断の疲れは全く感じなかった。 市内の中心地にあるホテルを訪ねたが、 ロバート・ケネディの葬儀を見ようと、全米から予約が殺到しており、全く予約できなかった。 YMCAにも行ったが、ラフな服装をしたヒッピーまがいの連中が長蛇の列をなしていた。 どんなところでもいい、とにかく泊まると... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その46 ニューヨーク ロバート・ケネディ暗殺・葬儀 ロサンジェルスを出発して十九日目、 一九六八年六月六日、オールバニーを出発、 ニューヨーク・シティを目指す。 あと、約二百四十キロである。 ハイウェイの標識には「ボストン170マイル(二七二キロ)」とあった。 大西洋は見えなかったが、アメリカ大... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その45 四十キロ先のオールバニーまで、 重いバイクを押していくのは不可能である。 バイクをハイウェイ脇に置いたまま、 ヒッチハイクしながらオールバニーまで行き、 バイク屋と一緒に取りに来るしか手はなかった。 しかし、雨の降りしきるハイウェイに立っていても、 車は来なかった。 時たまヘッドライトが... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その44 シカゴからナイアガラの滝までは約八百キロ。 日本語のガイドブックのない時代、 私の観光地の知識は、ほとんど観た映画からあった。 このナイアガラの滝の凄さを知ったのは、 マリリン・モンロー、ジョセフ・コットン主演の映画 「ナイアガラ」の影響である。 一九五〇年代、ナイアガラはアメリカ人の新... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その43 セントルイスから北へ二時間、 イリノイ州の首都スプリングフィールドに着いた。 この町はケンタッキー州の丸太小屋で生まれたリンカーンが、 弁護士になり、大統領になるまでの二十五年間住んでいた町で、 「リンカーンの住んでいた家」、「リンカーンの事務所」、「リンカーンの墓」など「ランド・オブ・... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その42 カンザス・シティからセントルイスへ、 やっと雨も上がり、ときおり青空が見えはじめた。 オクラホマ・シティからセントルイスまで約五百キロ、 雨のため三、四日を費やした。 バッグの中の衣類は、大分雨を吸い込んでいたので 公園のベンチに広げで乾かしたが、なかなか乾かず その上、汚れ、臭かったの... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その41 アリゾナ州キングハムから一直線に東へ延びてきた ルート66は、ここオクラホマ・シティから北東、 時計の二時の方角へ曲がり、シカゴへと延びている。 まだ、シカゴまでは千三百キロほどある。 夜半、雷は鳴りっぱなしで、朝になっても雨は無常に振り続け、 モーテルの窓から、雨にさらされているバイク... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その40 雨の中西部 グランドキャニオンからオクラホマ・シティまで約千百キロ、 この区間は大げさに表現すれば、 ずっと下り坂だったような気がした。 やっと平地へたどり着いたような気分であったが、 空模様がおかしくなってきた。 テキサス州のような澄み切った青空は、 いつの間にか消え、雲が垂れ始め、 ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その39 テキサス州の入ると、ルート66に沿って 途切れることなく遥かかなたまで、 金網の柵が伸び、その中は見渡す限りの広大な牧場で、 数え切れないほどの牛が、自分たちの運命を知る由もなく、 のんびりと牧草を食べていた。 その上には、透き通るような青く静かな空が広がり、 ジェームス・ディーン主演の... 続きをみる

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    その38 テキサス州に入ると西部劇映画によく出てくる 風車を広大な農園でよく見かけた。 せっかくのアメリカ大陸横断だから できる限り多く、日本ではめったにお目にかかれない アメリカらしい写真を撮ろうと思っていたが、 アメリカに四年も住んでいると、 アメリカの風景に慣れてしまい、 どれがアメリカらし... 続きをみる

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    その37 ニューメキシコ州の東隣は オクラホマ州とテキサス州の二つの州に接しているが、 ルート66はテキサス州を通っている。 ニューメキシコ州の州境で時計を見ると、 午後五時を少し回っていた。 日没までには、まだ時間がありそうなので、 急ぐ旅でもないが、少しでも距離を稼ごうと走りだした。 テキサス... 続きをみる

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    その36 ルート66沿い、広い駐車のあるレストランで 食事を摂っていると、 大型のトレーラーが停まり、 中から赤シャツ、ジーンズにブルーのネッカチーフ首に巻いた オバちゃんが降りてきて、賑やかにガラガラ声で 親しそうにウェイトレスたちに話しかけ、 私と目が合うと「young guy(兄ちゃん)、き... 続きをみる

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    その35 ルート66を走り州境に来ると「Come Again」とか 「Welcome To・・・」と、ひと目でわかる大きな標識版 が必ずあった。 アリゾナ州の過ぎるとニューメキシコ州である。 この州は標高九百メートルから三千九百メートルと 高低差の激しい州で、 走っていると急に寒くなったり、 暑く... 続きをみる

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    その34 ルート66 フラッグスタッフからルート66を東へ 五十六キロほど走ると、 単に「233」と記した標識の出口があり、 その横に「Meteo Crater(メテオ・クレーター)」と、 注意していないと見過ごしそうな案内板があった。 そうか、ここのことかと想像を膨らましながら、 出口を出て南へ... 続きをみる

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    その33 痛いのを我慢してルート66のフラッグスタッフへ ゆっくり目指したが、痛さに我慢できなくなり、 途中のモーテルへチェック・インし、 そのまま眠り込んだようだ。 ドアをノックしてカギを開ける音に 目が覚めた。 ドアが開き、年老いた黒人女性と一瞬目が合った。 彼女はこのモーテルの掃除夫だった。... 続きをみる

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    その32 当時、ルート66は大規模な拡張工事が行われていた。 1985年、古いルート66は、 インターステート40となったが、 その後、ルート66は歴史的な道路として、 再び世界の愛好者に脚光を浴びている。 グランドキャニオンへの入口 ルート66沿いのウイリアムスに 着いたのは夜だった。 翌朝は気... 続きをみる

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    その31 翌朝、寝坊し、 ラスベガスのホテルを出発したのは 昼前だった。 ラスベガスからはルート15を離れ ルート93を東北へ約一時間行くと コロラド河をせき止めた フーバーダムに着いた。 このダムは黒部ダム同様 ダムの上が道路になっており、また ネバダ州とアリゾナ州の州境に なっている。 このダ... 続きをみる

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    その30 ロサンジェルスの大盆地を抜け、 サンバーナーディーノから、ルート15の山岳地帯を 登りきると、雲一つない砂漠の中を一直線にハイウェイは 伸びていた。 五月のさわやかな太陽と風を浴びながら、 私のバイク「YMⅠ」風とエンジン音だけが支配する 砂漠の中を快適に走り抜ける。 それはライダーだけ... 続きをみる

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    その29 アメリカ大陸横断へ バイクは単に 世界旅行に使用する交通機関 だと思っていた。 バイク旅行の経験もなく 何を準備すべきか考えることもせず、 金さえあれば、 必要なものは途中で買えば 良いのであって、 大事なことは、不測の事態に 如何に臨機応変に対処するかである。 アメリカ生活も四年、 す... 続きをみる

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    その28 しかし、予算を計算すると この金額ではとてもインドまで 車で旅行するのは不可能と分かった。 ある日曜日、 隣室のAさんにばったり会い、 雑談の中で、私の旅行の話になった。 すると、Aさんはバイクで行くことを勧めた。 彼は私と同年配、若いヤマハのロサンジェルス駐在員で、 彼の奥さんは、まだ... 続きをみる

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    その27 一九六四年以後、 日本では、 東京オリンピックも終わり、 海外渡航自由化になり、 冷ややかなアメリカ人の眼にも気付かず、 今で考えられないような正装姿の 日本人団体観光客が 洋酒の「ジョニ黒」や「ジョニ赤」、 デズニーランドで「メイド・イン・ジャパン」の ミッキーマウスのぬいぐるみを爆買... 続きをみる

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    その26 私の一日のスケジュールは 朝早くから、夕方四時まで働けるようになり、 少しは収入も良くなったが、 仕事と学校と、時間的には寝るまで 英語学校時代と何ら変わらなかった。 大学では毎週一冊の教科書を読み、 レポート提出が義務づけられ、 その上、墓の仕事だけでは、月八十ドルの授業料が 払えない... 続きをみる

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    その25 英語学校に入学してしばらくしたある週末、 同じクラスの日本人学生に、ラスベガス行きを誘われた。 当時、ラスベガスは「博打」をするところとは 何とか知っていたが、 ラスベガスがどこにあるかも知らなかった。 彼らに教えてもらい、見様見真似で賭けたら 「ビギナーズ・ラック」というのか 千ドル近... 続きをみる

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    その24 12時、墓の仕事を終えると、 近道をするため 赤レンガの塀を乗越え、 走って下宿へ帰り、シャワーを取り 昼食を摂り、バス停へと急いだ。 英語学校は Wilshire BlvdとVermont Ave.交差点近く 静かな住宅街にあった。 車があれば十分ほどの距離であったが、 バスだと乗り換... 続きをみる

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    その23 ロスアンジェルス一帯の地下層には油脈あり、 現在はどうか知らないが、 その油脈の上に建物があれば、 石油会社は、建物の持主に、その土地の広さに応じて 年間、いくらかの配当金を支払っていた。 墓を掘ると、いつも、ジワジワと石油がにじみ出ていた。 だから、埋葬日は白人スタッフの作業着は 油粕... 続きをみる

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    その22 墓では、朝早く事務所に出て コーヒーを沸かす順番制があった。 皆、このコーヒー沸かしが嫌であった。 事務所は樹木に囲まれ薄暗く その前には火葬用に焼却炉があり、 事務所の壁には、火葬された身元不明の人々の 生ゴムで作られた何十ものデスマスクが ぶら下げられており、 その隣の作業場には 板... 続きをみる

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    その21 私は休憩中、武藤さんが話す 過去の日系人の生活体験を聴くのが 楽しみだった。 こんな話もあった。 武藤さんは戦前 日本人学校の教師をやっていた。 真珠湾が攻撃され、戦争が始まると、 教師である武藤さんたちは スパイ容疑をかけられ、 すぐFBIに連行され、 家財道具を二束三文で処分し、 家... 続きをみる

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    その20 事務所に行くと、 下宿屋の主人から電話があったと、 武藤さんという七十過ぎの 日系人が出迎えてくれた。 墓の葬儀一切は 白人のスタッフ三人が仕切っており、 武藤さんは八十エーカー(九万六千坪)の墓の芝刈りなど 清掃を契約で請け負っていた。 気持ちが悪いのか、 墓で働く者はいないらしく、即... 続きをみる

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    その19 大体、ガ―ディナーの仕事は、 一軒の庭を一人でやれば一時間かかるが、 二人でやると その半分の三十分で終わった。 一日、何軒の庭を手入れするかで 収入も違ってくるので ガ―ディナーは皆仕事が速かった。 アメリカの平均月収が五百ドル前後の頃、 ガ―ディナーは、九百ドルほどは稼いでいた。 バ... 続きをみる

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    その18 その日、食堂で、一日遅れでロサンジェルスから配達され日系新聞「羅府新報」に「ガ―ディナーのヘルパー求む、 比嘉ボーディング・ハウス」と広告があった。 ボーディング・ハウスとは下宿屋のことである。 すぐ、そのボ―ディング・ハウスに電話すると ヘルパーの日給は$15だと言う。 葡萄農園にいて... 続きをみる

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    その17 葡萄畑に囲まれた農園は 休日だといっても、 車がないと孤島で動きが取れなかった。 時間が有り余るほどの休日、 洗濯して時間つぶしする。 洗濯場は小屋の外にある、コンクリートの流し台でした。 日本では、ホテルなど特別な所でないと 蛇口から湯は出ない時代だったが、 アメリカではこのような農園... 続きをみる

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    その16 夏時間のカリフォルニアは 八時を過ぎても明るかった 夕食が終わると、 サムの娘たちは事務所前で 即席の売店を開き、労働者相手に  ビール、タバコ、コカ・コーラなどを 売りはじめた。 年老いた労働者たちは夕食を済ませると 夕涼みを兼ね、売店の周りに集まり、ビールを飲みながら、 娘たち相手に... 続きをみる

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    その15 葡萄畑には夜間、 たっぷり水が撒いてあり 足元は泥んこになっていた。 作業に慣れない私は 葡萄の蔓を抱えたまま 何度もひっくり返り、シャツもジーンズも あっという間に泥んこになった。 この作業を一時間も続けていると 腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど疲れた。 労働者を管理するジョージ... 続きをみる

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    その14 朝食が済むと ジョージの運転するトラックの荷台に全員乗り込み、 全員といっても十数人だったが、 葡萄畑の農道を もうもうと砂塵を上げながら、 猛スピードで東走り出した。 トラックの荷台は 夜明けの冷たい風をもろに受け 歯が合わないほど寒かった。 葡萄畑のはるか地平線に 太陽が昇り始め、 ... 続きをみる

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    その13 私の小屋には先客がいた。 日本語は少しわかるという 七十歳ぐらいの朝鮮人で、 数日前、小屋の入り口の階段を踏み外し 足を怪我したと言い、包帯をぐるぐる巻きにして ベッドで横になっていた。 彼は子供の時、 父親とアメリカへ密入国、 季節労働者として カリフォルニア各地の農園を 季節労働者と... 続きをみる

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    その12 寝泊まりは 白ペンキがあっちこっち剝げた 粗末な掘立小屋で、 「ギイ・ギイ」と、錆びた音のするスプリングの利かない 埃をかぶった古いベッドの六、七個あり、その脇に小さな机と、 その上に電気スタンドがあった。 窓は一つしかなく、 昼間でも部屋の中は薄暗く、 天井から裸電球が一つぶら下がって... 続きをみる

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    その11 昨日(2017年5月19日)は、 カッコよく言えば、 私がバイクで世界一周へロサンジェルスを出発して 50周年の記念日だった。 しかし、そんなことなどすっかり忘れ、友人と五月晴れの下で ゴルフを楽しんでいた。 話を元に戻そう。 デラノのバス・ターミナルで、三十分ほど待っていると 小型トラ... 続きをみる

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    その10 九月からの学費、生活費を稼ぐ必要に迫られ、 ホテルの日系老経営者に事情を話すと ガ―ディナーのヘルパーは金になると言う。 ロサンジェルス一帯のアメリカ人の庭を 手入れするのが日系ガ―ディナーの生業であった。 夏場は芝生の伸びが早く、ガ―ディナーの需要も多く、 ヘルパーを雇っていた。 当時... 続きをみる

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