1968年のバイク世界一周旅行

その47


アメリカ横断の疲れは全く感じなかった。


市内の中心地にあるホテルを訪ねたが、
ロバート・ケネディの葬儀を見ようと、全米から予約が殺到しており、全く予約できなかった。
YMCAにも行ったが、ラフな服装をしたヒッピーまがいの連中が長蛇の列をなしていた。


どんなところでもいい、とにかく泊まるところを確保しようと、
走り回っていると、偶然、予約できるホテルを見つけた。
やっとホテルを予約できた喜びとともに、我に返ると、
ロビーには新聞紙やゴミ散乱し、ホテルの入口では酒をラッパ飲みする黒人たちがたむろしていた。


何となく嫌な予感がしはじめたが、
意を決し部屋に行こうとエレベーターに乗ると、
ドアは手で開け閉めする旧式なものであった。


五階でエレベーターを降りると廊下は薄暗く、
人がやっとすれ違いできるぐらいの狭さであった。
部屋にはゴミ箱用の古いバケツがあるだけで、
シャワーはあったが水も出なかった。


私はホテルの入口で酒をラッパ飲みしながら、
たむろしている黒人たちが、夜中に寝ている私を襲い、
下手をすると殺されるのではないかと不安と恐怖で、
用心のため部屋のドアのそばにバケツを置き、
ドアが開くとバケツに当たり音がするようにした。


反面、頭のどこかで世界一殺人の多いニューヨークでも
映画のようなことは起こるまいという思いもしたが
サバイバルナイフを握って、起きてベッドに座っていたが、
疲れ朝まで眠り込み、無事に朝を迎えた。


ニューヨークのような犯罪の多い町で
何事もなかったこと自体、単にラッキーだったのかもしれない。
当時のハーレム地区はそんなところだった。
何事もなかったこと自体、単にラッキーだったのかもしれない。
当時のハーレム地区はそんなところだった


この恐ろしいホテルを早々にチェックアウトし、タイムズスクエアへ行き、ヨーロッパ行きの船を予約することにした。

街角のベンチで「ニューヨーク・タイムス」を広げ、
ドーナツをかじ、コーヒーを飲みながら旅行社を探すと
近くに日系人の旅行社があった。
古い建物の二階にある小さな部屋を訪ねると、
開業して三年目だと言う三十代の日本人男性が応対した。
彼には大西洋を横断する船客は初めてらしく、
何社かの船会社に電話し、やっと六月十日、ポルトガルのリスボン行きの席を予約してくれた。


夏休みシーズンが始まり、最も安いエコノミークラスは満席で、
ツーリストクラスを三百七十四ドルで予約した。