1968年のバイク世界一周旅行

その46


ニューヨーク ロバート・ケネディ暗殺・葬儀


ロサンジェルスを出発して十九日目、
一九六八年六月六日、オールバニーを出発、
ニューヨーク・シティを目指す。
あと、約二百四十キロである。


ハイウェイの標識には「ボストン170マイル(二七二キロ)」とあった。
大西洋は見えなかったが、アメリカ大陸の東の端まで来た
という実感が湧いてきた。


ハドソン川に沿って南へ半日も走れば、ニューヨーク・シティである。ハイウェイはフリーウェイと名を変え、
交通量も急激に増え始めた。


ニューヨークナンバーはもちろんのこと、マサチューセッツやコネチカット、ニュージャージー州など、ニューヨーク州と隣接した州の車がやたらと目につき始めた。


ニューヨーク市街に近づくにつれ、映画や写真で見た摩天楼が迫ってきた。
走行距離は五千キロを越えていた。


しかし、何か変だった。


昼間であるというのに行き交う車は
みなヘッドライトを点け、スピードを落とし走っていた。
世界最大の町、ニューヨークの繁華街、四十二丁目と七番街のブロードウェイの交差点、タイムズ・スクエアに着いたが、
そこでも、車はライトを点灯してゆっくり走っていた。


休み明けの月曜日だというのに、町は人通りも少なく、
想像していたような活気もなく、静まり返っていた。


給油しようとガソリン・スタンドに入ると、
数人のスタッフはみな事務所の中で、
客の私など無視してテレビを見ていいたので、文句を言ってやろうと、事務所の中へ入っていくと、
「ボブ(ロバート)・ケネディが暗殺されたんだ。お前も見ろよ」と、私に催促するのでテレビに目をやった。


その瞬間、もう、私は給油のことは忘れ、彼らと一緒に「ロバート・ケネディ暗殺」報道番組にくぎ付けになった。


ロバート・ケネディはカリフォルニアで秋の大統領選挙の
予備選に勝利した一九六八年六月五日の夜、
ロサンジェルスのアンバサダーホテル(私のアパートから視界に入るウイルシャー通りにあった)で祝賀会を終え、
観衆の混乱を避けようと、ホテルの調理場通りを抜け
車へ向かっていたとき、パレスチナ系アメリカ人に銃で
頭を撃たれ死亡したと、
テレビはくり返し、くり返しアナンサーのヒステリックな声と生々しい現場の映像を流し続けていた。


私が外務省私費留学試験に向け勉強していた
一九六三年十一月二十三日、兄の大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、
私がアメリカを出国しようとしていたとき、
弟ロバート・ケネディが暗殺された。 
大統領と次期大統領確実視されていた、兄弟の暗殺は
アメリカはもとより世界に衝撃を与えた歴史的大事件であった。


彼の葬儀は六月八日、ニューヨークのセント・パトリック大聖堂で催されれることになった。
私はこの歴史的大事件の葬儀の生き証人になるかもしれないと思い、詳細を記憶に留めて置きたかった。