1968年のバイク世界一周旅行

その81


雨と寒さのトルコ横断


ヨーロッパ側とアジア側に挟まれた
ボスボラス海峡には、まだ橋は架かっていなかったので、
フェリーで渡りアンカラを目指した。


車もほとんど走っていない、トルコ高原を東へ一直線に
貫いている道路を気分良く走っていると、
突然、牧草地から牛がゆっくりとした足取りで
道路へ入り込んできた。


急ブレーキをかけると、後ろに乗っている
ボディガード君もろとも横転する危険があった。


一瞬の出来事で、牛の前を横切るか、
後ろを横切るか判断する間もなく、
牛の横っ腹に激突した。


バイクは横転し、私たちは横転した牛を飛び越え
反対側へ投げ出された。
私も驚いたが、牛も驚いたらしく。
すぐ、起き上がり、その場を走り去って行った。


そこへバスが停まり、トルコの若者たちが
私たちのところへ走り寄り、
「大丈夫か?」と声をかけてきた。
彼らはアンカラでのサッカー試合に参加する選手たちであった。
その中の一人が折れた牛の角を拾ったらしく
「いいトルコの記念だ。日本に持って帰れ」と、私に笑顔で手渡し
去って行った。


ロスアンジェルスを出発してから、グランドキャニオン、スペインその時の事故も大事にならなかったが、
ボディガード君はバイクに乗るのを恐れ
バスで中近東を横断しインドへ行くことになった。
私も、彼にもしものことがあれば責任問題になるので、
そこで別れることにした。


トルコの首都アンカラに着いたが、
観光するするところがなく、イラン大使館へ出向き、
イランの入国ビザを取得するだけに終わった。


何処でも大都市ではそうであったが、
アンカラも道路が入り組んでおり、
市内から郊外へ抜け出すのに時間がかかった。


郊外に出て東へ延びる道をまっすぐ走れば、
イランへ着くはずであるが、
その道を探すのが一苦労だった。


バイクを道端に停め、道行く人に英語で聞いても
わからないので、東の方を指さし、
「イラン、イラン」と繰り返し言うと、
こっちの方だと北の方を指さす。


北へ向かえば黒海で、その先はソ連である。
彼らの指さす方角を疑いながらも、
仕方なくアンカラから北へ約430キロ、
黒海に面したサムソンの町を迂回して
イランへ行くことにした。


トルコ東南部には1,000万人以上のクルド人が住んでおり、
トルコと自治権要求をめぐる紛争が長年続いており、
東への道路は危険だから迂回せよと
彼らは言っているのかもしれなかったが、
トルコ語がわからないので、彼らの指示に従うしかなかった。


今の人はiphoneもNetもない時代、旅は大変だったのですねと
言うが、地図で探し、人に聞きながらの旅が当たり前であったので
苦労とは思いもしなかった。
江戸時代、江戸からお伊勢参りをするのに、片道三週間も歩いて旅した。それが当たり前で、誰も苦労とは思わない旅であった。
アナログの旅の方が楽しいかもしれない。