1968年のバイク世界一周旅行

その25


英語学校に入学してしばらくしたある週末、
同じクラスの日本人学生に、ラスベガス行きを誘われた。


当時、ラスベガスは「博打」をするところとは
何とか知っていたが、
ラスベガスがどこにあるかも知らなかった。


彼らに教えてもらい、見様見真似で賭けたら
「ビギナーズ・ラック」というのか
千ドル近く直ぐ勝った。
こんなラッキーなことはなかった。
直ぐに、中古の車を七百ドル近くで買い
プライバシーのない下宿屋を引き払い、
アパートへ引っ越すことにした。


当時、アメリカへ渡った日本人のほとんどが
そうであったように
私も日本人のいない
アメリカ人住宅街に住もうと
アパートを探したが、
すべて貸すのを断られ、日本
人住宅街に住む羽目になった。
ある意味でその方が気楽であった。
 
私の借りた日系人の経営するアパートは
六部屋あり、日系人、日本の駐在員が住んでいた。
私の部屋は小さく借り手がなく、
長い間空き部屋になっていたそうだ。
それでも十二畳ほどの部屋に
シャワー、エアコン、冷蔵庫も備えられ、
当時の一般の平均的部屋代は
八十ドルぐらいだったが
私の部屋代は月三十五ドルと安かった。


一日のスケジュールは


六時に起床、
パンとコーヒーの朝食を摂り仕事場へ
七時から十二時まで仕事。
帰宅してシャワーと昼食。
午後二時から九時まで学校。
9時半に帰宅して、簡単な食事をして
シャワーを浴び、神経を集中させて
テレビを観る。
これは英語の勉強に大いに役立った。


アメリカに来て六カ月しても
ヒアリングが出来なければ
英語は上達せず、
大学に進学しても、授業についていけないと
聞いていたからだ。


アメリカの永住権を取得するまでの
隠れ蓑のような英語学校は一年で辞め、
大学へ入った。


アメリカは就職するのに
大学は全日制も夜間も関係がないので
昼間は墓で働き、夜間の大学に入り、
日本では、まだ馴染みのない
ビジネス・マネージメントとい分野を専攻した。