1968年のバイク世界一周旅行

その24


12時、墓の仕事を終えると、
近道をするため
赤レンガの塀を乗越え、
走って下宿へ帰り、シャワーを取り
昼食を摂り、バス停へと急いだ。


英語学校は
Wilshire BlvdとVermont Ave.交差点近く
静かな住宅街にあった。


車があれば十分ほどの距離であったが、
バスだと乗り換えを入れ、一時間はかかった。


生徒はカリフォルニアという地図的関係もあり、
中南米、アジア人特に日本人が多かった。


六クラスあり、テストでレベル別にクラスが決めら
日本人は一から三までのクラスの生徒が多かった。


生徒数は二百四十名ほどで、
日本人生徒は約三十名だった。


州立の英語学校で、
年間一ドルという、一時間働けば払える授業料であった
授業は会話の他、読み、書きにも重点が置かれていたが、
ほとんどアメリカの歴史、歴代大統領の功績などの載った
古い新聞を教材に進められた。


アメリカは世界一豊かな国、自由な国、民主主義の国で、
共産主義は怖いなど、教師は強調していたので、
その授業料の安さの理由を私なりに理解していた。


この学校に籍を置く生徒のほとんどは
英語を学ぶのが目的でなく
世界一豊かな国、アメリカ永住が目的だった。


学生ビザでいる限り、
いつまでもアメリカに居座れるので
英語学校は永住権を得るまでの
便利な隠れ蓑だった。


「発展途上国」日本の五、六倍も稼げ、
エアコン、湯の出る水道のある
大きな庭付き家、
車が持てる便利で
豊かなアメリカに住みたいと思うのが
当時アメリカへ足を踏み入れた日本人には
当然だった。
永住権を得る早道は米国籍の人間と結婚することだった。


日本女性は順応でやさしく家庭的だと
評判が、当時はあり、直ぐ学校から消えていたが、
職もない、貧しい国、日本から来た男性など
米国籍の女性には
見向きもされず苦労していた。


下宿屋でも日本人町の飲み屋で働く
離婚した戦争花嫁に高額な金額を払えば
契約結婚し、一年後に「離婚」すれば永住権が
取得できるといううわさが広まっており、


今では考えられないような話であるが、


水面下では永住権獲得のための
努力は涙ぐましいほどの、
すさまじさであった。