1968年のバイク世界一周旅行

その27


一九六四年以後、
日本では、
東京オリンピックも終わり、
海外渡航自由化になり、


冷ややかなアメリカ人の眼にも気付かず、
今で考えられないような正装姿の
日本人団体観光客が
洋酒の「ジョニ黒」や「ジョニ赤」、
デズニーランドで「メイド・イン・ジャパン」の
ミッキーマウスのぬいぐるみを爆買いし、
ロサンジェルスの町を
楽しげに歩く姿が
目立ち始めていた。


「Beach Boys」の歌う
「Honda」が大流行するほど
日本製バイクが売れ出し、
ロサンジェルスの街角では
「トヨタ」車を月に数台は
見かけるようになった。


日本人観光客が急増し始めると
航空会社は「日本語の話せる社員」の募集を始めた。
アメリカで働けば給料も良いし、
週休二日制で長期休暇も取れ、
安く日本へも行ける。


これが私の就くべき職業であると気付いた。
早速、日本航空ロサンジェルス支店へ
願書を出すと、その場で内定した。
だが、本採用の手続きに入り、
永住権がないという理由で不採用になった。


パンアメリカン航空やほかの航空会社も
出かけたが結果は同じだった。


日本でも「英語の話せる社員」の募集が
遅かれ早かれ、始まることは目に見えていた。


善は急げや!


それならば、アメリカの観光地を
出来るだけ多く観て帰れば、就職に有利だろうと考えた。
いや、ヨーロッパを、中近東を、アジアを観て
帰った方がもっと有利だろうと考えた。


やったろう!
飛行機で?


飛行機で行けば、時間はかからないが
点々と行くだけで、線で行かないと
生の観光知識は得られない。


車に旅行しようか?


もう学校など、どうでもよかった。
すぐ学校を辞め、必死で働き
今までの蓄えと合わせると
三千ドル近く貯まった。