1968年のバイク世界一周旅行

その51


ヨーロッパへ 大西洋航路


ニューヨーク港を出港してすぐ、ロビーに夕食のメニューと、
円形テーブルの指定席表が張り出された。


食事は、いつも同じテーブルの指定された席と決められていた。
どのテーブルも、八人ほど座れる大きさで、
家族連れは家族連れ同士、夫婦連れは、夫婦連れ同士で
座るように一応は指定されていたが、


どういうわけか、私は老人カップルだけの席に指定され、
ときおり愛想笑いして話しかけてくれる、二人のバアさんに挟まれ、ただ、黙々と運ばれてくる料理を口へ運ぶだけの
味気ない場所だった。


バアさんたちは、若い私には全く理解できなかったが、
テーブルに着き、食事が終わっても、延々とおしゃべりが続いた。


私は十数分もあれば食べ終わるが、
船旅では、町のレストランのように
食べ終わると支払いを済ませ、
サッサと出て行けない、暗黙の「マナー」があるのか、
飽き飽きするような長い会話が続き、
バアさんたちは、打ち合わせたように、
おもむろに席を立ち食事は終るのであった。


私には、この船旅の食事時間は、
苦行以外の何物でもなかった。


夕食の時だけは、ドレスアップというか背広着用が
義務づけられていたが、
乗船した日はクリーニングに出す時間もなく、
バッグに入れていた、しわだらけの背広を着ての夕食になった。


各テーブルには一人のウェイターが付き、
朝昼晩と同じウェイターが料理を運んできたり、食器を下げたりした。
私たちのテーブルを世話するウェイターは、
五十過ぎのでっぷりしたギリシャ人だった。


私の席の連中は食事が終わって、もだれもチップを置かないので、
私は気を利かし、毎回チップをさらに下に隠すように置いていた。


三日目ぐらいだったか、そのウェイターが、そっと私に近づき、
「毎回、毎回、食事のたびにチップを戴くのは、ありがたいが
船旅では、下船するとき、まとめて払うものだョ」と耳元でささやいた。
その人声を聴いた途端、私は顔から火が出るように恥ずかしかったが、
彼の眼は優しかった。