1968年のバイク世界一周旅行

その65


東ベルリンでの出来事


安ホテル前の駐車場にバイクを置き、
航空運賃は10ドルを払い、ハンブルグ空港から
パン・アメリカン航空で西ベルリンへ出かけた。


当時1ドルは¥360であったから、
¥3,600払ったことになる。
現在、ハンブルグ・ベルリン間の航空運賃は
約140ドルである。
50年前に比べ、14倍になっている。
ガソリンは1リッター¥60ほどであったが、
今は3倍の¥180ほどである。


1968年当時、西ベルリンはフランス、イギリス、アメリカ、
東ドイツはソ連に統治されていた。


西ドイツから西ベルリンへ行く方法は
途中下車が禁止されていたアウトバーン(高速道路)を
車か、鉄道、空路しかなかった。


外交官と外国人は、東西ベルリンの検問所(チャーリ―ポイント)を通ることができたので、東ベルリンへ行ってみることにした。


西ベルリンと東ベルリンの境界線に米軍の簡易事務所があり、
検査もなく、簡単に東ベルリン側へ出られるのであるが、
そこにあった
「You are leaving the American sector(あなたは米軍占領地区を離れつつあります)」と書いた立て看板を見たとき、
何となく、二度と東ベルリンから西ベルリンへ
戻れないのではないかと、一瞬、不安になった。


東ベルリン側の入口にはブロックの壁や監視塔、
コンクリート製のジグザグに置かれたフェンス、
その横には通過する車をチェックするブースがあり、
東ドイツから西側へ逃亡を図る東ドイツ国民を
摘発する東ドイツの兵隊が厳しく監視していた。


東ベルリンに入ると社会主義の無機質というのか
歴史的建造物や華やかな商業施設もなく、
まるで映画のセットで、生活感のない寂しい町であった。
商店のショーウインドーは、略奪されたように商品もなかった。


二十分ほどで、このような町を見るのも飽き、
東ドイツ検問所近くのベンチに座り、タバコを吸っていると、
周りに東ドイツ兵がいるのに、
若いカップルや子供連れの家族、老人たちが
何か意味ありげに歩き回っていた。


どういう方法をとっていたかは、わからなかったが、
家族や友人、知人たちと連絡を取り、
チャーリーポイントで、それとなく会い、
連絡を取り合っているように思えた。


そこへ東ドイツの中年男性が、突然、私の横に座り、
「これを西側のポストに投函してくれないか」と、
折り畳んだ封筒をポケットから出し、
私に見せながら、たどたどしい英語で言った。


それは、ほんの一瞬の出来事であった。
東ドイツ兵にその現場を見つかれば、
私には、恐ろしい運命が待っていることは、
明らかであった。
「Sorry, I can’t do it(わるい,私にはできない)」と、
きっぱりと断り、
私は逃げるように、その場を立ち去った。


こんなところでウロウロしていると
どんなトラブルに巻き込まれるかわからないと思い、
地下鉄で、東ベルリンから西ベルリンへ行けると聞いていたので
地下鉄の階段を降り始めると、周りに誰もいなかった。
入口を間違ったと思い、出口へ向かおうとしたとき、
巡回中の二人のドイツ兵に銃を向けられ、
「ハルト(とまれ)!」と、大声で呼び止められ、
地下にある兵隊たちの部屋へ連行された。