1968年のバイク世界一周旅行

その60


フランス、オムレツ、オムレツ


早朝、バイクの衝突音で家々から
人々が飛び出してくるのがわかった。
そして人々が私を道路脇へ運び、
大丈夫かと、口々に声をかけながら介抱てくれた。


私は、しばらく事故のショックで口もきけなかったが、
三十分ほど横になっていると気分も良くなったので、
バイクを点検すると、ハンドルが少し曲がっているだけであった。


たまたま、事故を起こしたのが、自動車修理工場の前だったので、
ハンドルを修理してもらい、
フランス国境を目指した。


ヨーロッパの入国出国手続きは、パスポートを提出して、
それにスタンプを押してもらうだけの簡単なものだった。


フランスへ入国し、パリを目指して走っていたが、
頭痛がして、吐き気までしてきた。
トラックと衝突した時、頭打ったようだ。
ヘルメットをかぶっていたので、大丈夫だと思っていたが、
とてもバイクに乗れるような状態ではなくなってきた。
まだ昼前だったが安宿に入り、氷水で頭を冷やしベッドで安静することにした。


昼飯も摂らずに熟睡していた。
目が覚めると窓の外は暗くなっていた。
眠ったためか気分も良くなり、宿のレストランへ行き、
メニューを広げると、フランス語で何の料理かさっぱりわからなかった。
字から判断してわかるのは「オムレツ」だけであった。そのオムレツも何種類もあり、どんなオムレツか皆目わからなかった。
ウェイトレスに、
「英語分かる?」と聞いても、
「ノン」とそっけない返答をして、早く注文しろとばかり、
不愛想な顔をして突っ立っていた。


フランスでも観光地の地中海沿岸では英語は通じたが、
観光地を離れると英語が通じなかった。
腹が立ったが英語が通じないのでは、仕方がないので、
何種類もある「オムレツ」メニューの中から、
適当に一つを指差して、これだと注文するしかなかった。
どんな「オムレツ」がテーブルに運ばれてくるか
わからないほど、不安なものはなかった。


フランスに来て初めて、言葉が通じないと食事するだけでも、
こんなに大変なものかと情けなくなった。


フランス語は英語と発音が違うので、地名さえ発音できず、
映画や歴史で有名な地名以外は覚えられず、
途中でフランス人に会っても意思が通じず、
ほとんど話すこともなく田園地帯を北へ走った。
パリまでの間、ボルドーはワインで有名なので知っていたが・・・・。


この年(一九六八年)七月、
パリはゼネストを主体とする民衆の反体制運動、
いわゆる五月革命が勃発していた。
七月半ばであったがパリは騒然としており、
パリは危険だから、行かない方が良いと
途中で出会ったヒッチハイカーに聞いていたが、
観光ガイドブックを作るためのネタにもなるので、
エッフェル塔、凱旋門、ムーランルージュ、モンマルトの丘、
ルーブル美術館はどうしても見ておきたかった。


パリに入ると町は静けさを取り戻していた。
エッフェル塔の下にあるベンチで昼寝ていると、
カメラを肩に下げた同年輩の若者が、私に声をかけてきた。
彼は大阪出身で、建築家になるため、
ヨーロッパの歴史的建築物を観て回わり、勉強していると言った。
彼は若き日の世界的有名な安藤忠雄氏である。
私にとって安藤忠雄氏に会ったのが、人生最大の収穫の一つでもあった。