1968年のバイク世界一周旅行

その98


1968年12月11日、道路という道路は人、車、白い牛、
それに「バクシーン、バクシーン」と手を伸ばし、
どこまでも、どこまでも、まとわりついてくる物乞いの子供たち、
それに自転車の後部に客席を付けた輪タクなどで
身動きもできないほど混雑しているボンベイ市内に入った。


タージ・マハルで出会ったヒッチハイカーに
教えてもらった「救世軍(サルベション・アーミイ)」が
運営する宿はボンベイの中心街にあった。


この宿屋というかホテルというか、
質素な古い英国風の建物は木造であったが、
清潔で宿泊代も一泊2ドルと安く
何処でこの宿のことを知ったのか、
多くの日本人やヨーロッパの白人ヒッチハイカーが
滞在していた。


アテネを出発してから約2か月、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと雨や砂漠の旅に疲れていた私には、この安宿は極楽に思えた。


安宿といえば、西のアメリカから東へヨーロッパ、
中近東へ移動するにつれ、物価がどんどん安くなり、
2,000ドルそこそこで始めた旅も
資金的には全然困らなかったが、
これが反対に東から西への旅なら、
物価がだんだん高くなり、資金のことが気になり、
旅そのものが出来たかどうかわからなかったと思った。


走行距離は三万キロほどになっていたが、
休まず一気に走ったのではなく、
観光しながら、少しずつ距離を稼いだ旅だったので
そんなに長い距離を走ったとは思いもしなかった。


アテネを出てから、風呂も入らず、
洗濯らしい洗濯もしなかったので、
シャワールームにしゃがみ込み、
温かいシャワーを頭から浴びながら洗濯をすると、
下着は次から次へとほころび、二度と使い物にならなかった。
ジーンズは砂漠の砂や泥が、
コンクリートのように固くへばり付いており、
いくら洗っても汚れは落ちず、
あれほど楽しみにしていたシャワーも
三十分も浴びれば十分であった。