1968年のバイク世界一周旅行

その104


しかし、私の1964年から68年までの米国の学校と仕事
の日々の生活のことが最も印象深く、
バイクで世界一周旅行は、
4年間の米国生活の卒業旅行的なもので、
偶然というか、たまたま、予算の関係でバイクを交通機関として使った旅行で、大げさにバイク世界旅行の部分を書くには勇気が必要だった。


今まで、ここに書いたことをまとめてみる。
そもそも、私が米国へ行く気になったのは、
1964年の「海外渡航自由化」情報を知った時、
これからは海外旅行の時代だと直感し、
航空会社に就くことを夢に、
英会話勉強のため米国留学を決意した。


当時、日本は外貨不足で自由に留学できず、
外務省私費留学試験に合格した。
当時、私の月給は¥20,000、ロサンゼルスまで
片道航空運賃は¥148,600(今の貨幣価値で約\1,500,000)と給料の約8か月分であった。


給料から貯めた100ドル(¥36,000)を懐に留学し、
スタインベックの小説「エデンの東」や「怒りの葡萄」の舞台である中部カリフォルニアの葡萄畑や墓地、庭師のヘルパーと、あらゆるバイトをやりながら、英語学校から大学へ入った。


当時、アメリカはキング牧師の公民権運動、黒人の暴動の頻発、ベトナム戦争、学生の反戦運動と1950年代の「豊かで静かなアメリカ」は消え失せていた。


だが、音楽は黄金時代だった。ジョン・バエズ、ボブ・ディランの
反体制的なフォークソングが流行り、
ハリウッド界隈にはヒッピーがたむろし、
鎖を体に巻き付け、旧ナチスのヘルメットをかぶり、恐ろしい格好をしたバイク集団「ヘルズ・エンジェルス」が出現し、
アメリカという大国がほころび行くように感じた。


ビーチ・ボーイズの曲「ホンダ」が流行し始めると、
ロサンゼルスの街角には日本製バイクが走り回り、
「トヨタ」も月に数台見かけるようになった。


「ジョニ黒」や「ジョニ赤」を爆買いする日本人団体観光客が
米国西海岸へ押しかけ始めると、
航空会社は「日本語堪能」の社員の募集を始めた。


日本では考えられない週休二日制と長期休暇、給料は日本の数倍、
車庫付世界一便利で清潔な「ハウス」に住めることを期待し、
早速、応募したが永住権がなく、どこの航空会社も不採用。


私の夢は航空会社勤務。
帰国し航空会社に就職するには、
世界を観て回れば有利ではないかと
学校を辞め必死に働き、3,000ドルを貯めバイクを購入、


1968年5月19日、ロスアンゼルスを出発して、
ルート66をシカゴ経由し 6月5日ニューヨークに着いた。


6月8日、歴史的な一瞬に出会った。
それは暗殺されたロバート・ケネディの葬儀であった。
参列者のケネディ元大統領の妻ジャクリーン夫人、元駐日大使キャロライン・ケネディなどVIPを大群衆の中から垣間見ることができた。


1968年6月18日、ギリシャの豪華客船で大西洋横断リスボンに上陸、ヨーロッパ中をバイクで駆け巡り、エッフェル塔の下で、若き日の建築家安藤忠雄氏と偶然会い、ベンチでお互いの帰国後の夢を時間も忘れ語り合った。


東ベルリンでは東ドイツ軍に拘束され、
「プラハの春」封じ込めのソ連軍チェコ侵攻に遭遇。中近東ではシラミや強盗に襲われながら、
1968年12月25日、ボンベイからフランス船で帰国したのは
三億円事件の直後であった。


あれから50数年、若き日の決断と行動により、夢を叶えることができた。


最初に書いた「人生の途中下車」は不評だったが、
思いつくままにタイトルを「1968年のバイク世界一周旅行」と変えたら
あっという間にさばけてしまった。


儲けようとか名を売ろうとかの野心はないが
「冒険家」とか「日本で最初にバイクで世界一周したライダー」と持ち上げられると、「外資系企業を生き抜く方がずっと冒険」だと思うし、何を基準に「世界一周」と定義するのかわからないが、
海外バイク旅行など、金と暇さえあれば誰でも可能なことである。
その経験を活かし、そのあと、どう生きるかの方が重要である
未知への旅立ち近い私には、バイク談義を通じて友人ができたことは最高の幸せである。


ふと思い出すのは、
旅の途中で出会った人々や、お世話になった方々の住所録を
アフガニスタンで強盗に逢い盗られ、お礼状を出せないことである。