2017年5月のブログ記事

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    あの頃(1964年~68年)私は、 人には、人の数だけの人生がある。 しかし、人生は一度だけである。 この世に生を受けた一人の人間、 私の経験ですが、 今、人生に立ち向かっている 若者たちが生きていく上で、 何かヒントとして、少しで役立てたら幸せです。 また、同じ時代を生きた人々には, あの頃、何... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その2 一回しかない人生、当たり前のように、 年を取り、ただ「未知への旅立ち」を待つのは、 私にはできない。 77歳の私は、今も日々、 時間つぶしと、少しはボケ防止にと、 何をすべきかと、 常に前向きに考え、 実行に移すことにしている。 時間は待ってくれない、 時間と頭の使い方、思考は経験に基づく... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その3 疎開先近くには 特攻隊の基地があった。 米軍機の空襲で焼け野原になった街、 食糧難で栄養失調になった子供時代、 実経験として、記憶は鮮明である。 学業成績が悪く教師に無視され、 心身とも壊されそうな制度的に 強制された義務教育という名のもと ダダ機械的に登下校を繰り返した 嫌な日々の記憶も... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その4 中学生時代、エコ引きする嫌な教師がトラウマとなり、 学生時代は勉強もせず、 小中高と同級生の中でも存在感もなく、 将来の夢も描けず、大学も漠然と入り、 登校もせず映画館、パチンコ屋へ入り浸り、 閉店の「ホタルの光」の曲とともに追い出され、 疲れ切った額に脂汗をにじませ、 パチンコに夢中のた... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その4 中学生時代、エコ引きする嫌な教師がトラウマとなり、 学生時代は勉強もせず、 小中高と同級生の中でも存在感もなく、 将来の夢も描けず、大学も漠然と入り、 登校もせず映画館、パチンコ屋へ入り浸り、 閉店の「ホタルの光」の曲とともに追い出され、 疲れ切った額に脂汗をにじませ、 パチンコに夢中のた... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その5 1963年11月23日、日米TV衛星中継実験。 第一報はTVケネディ大統領(JFK)暗殺であった。 その翌年(1964年)は東京オリンピック開催と海外渡航自由化が控え、 世の中、活気に満ちあふれていた。 工場から容赦なく吐き出される排気ガスに 覆われた街のビルは霞んで見え、 国民のほとんど... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その6 留学への道は米国政府援助のフルブライト留学と、 外務省の留学試験以外なく、 その上、米国領事館は留学ビザ取得に 入学許可書(I-20)を要求、 その困難な手続きをしながら、 睡眠三時間で中学校三年間の英語教科書と悪戦苦闘の一年間。 だが、勉強は人に強制されるものでなく、 目的があれば楽しく... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その6 1964年7月2日出発、 私は24歳だった。 羽田・ロサンジェルス間の航空運賃は 片道約14万8千円だった。 今の貨幣価値で約150万円と、 想像を絶する高い航空運賃だった。 蓄えも少なく、 たった100ドル($1=¥36,000、初任給¥20,000時代)を懐に 28人乗りDC3プロペラ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その7 ホテルは、出発前、神戸の米国領事館で教えてもらった 日本語の通じる小林ホテル(ワイキキ・グランド・ホテル)、 と決めていた。 外国人と話したこともない私は、 空港からホテルまでのタクシーに乗るだけでも、 怖く、緊張し、話しかけるてくる運転手に 英語がわからず、ただ、「I see」の連続だっ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その8 食事代は$1ぐらい、 日本で稼ぐ一日のバイト代ほどの 高さであった。 ウェイトレスは、チップなるものを請求した。 チップにいくら払えばいいのかもわからず、 ポケットから小銭を出し、テーブルに並べると 彼女は、一番大きい形をした25セント・コイン をつまみ上げ、エプロンのポケットに ポイッと... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その9 ロサンジェルス空港に到着。 当たり前のことであるが、周りは皆アメリカ人。 英語が話せず、緊張で胃が痛んだ。 日本人留学生はリトル東京、日本人町のレストランで 皿洗いをして生活費を稼ぐと、 何かで読んだ記憶に従い、 うろたえ、動き回り、 やっと「リトル東京」へたどり着けるバスを見つけた。 バ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その10 九月からの学費、生活費を稼ぐ必要に迫られ、 ホテルの日系老経営者に事情を話すと ガ―ディナーのヘルパーは金になると言う。 ロサンジェルス一帯のアメリカ人の庭を 手入れするのが日系ガ―ディナーの生業であった。 夏場は芝生の伸びが早く、ガ―ディナーの需要も多く、 ヘルパーを雇っていた。 当時... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その11 昨日(2017年5月19日)は、 カッコよく言えば、 私がバイクで世界一周へロサンジェルスを出発して 50周年の記念日だった。 しかし、そんなことなどすっかり忘れ、友人と五月晴れの下で ゴルフを楽しんでいた。 話を元に戻そう。 デラノのバス・ターミナルで、三十分ほど待っていると 小型トラ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その12 寝泊まりは 白ペンキがあっちこっち剝げた 粗末な掘立小屋で、 「ギイ・ギイ」と、錆びた音のするスプリングの利かない 埃をかぶった古いベッドの六、七個あり、その脇に小さな机と、 その上に電気スタンドがあった。 窓は一つしかなく、 昼間でも部屋の中は薄暗く、 天井から裸電球が一つぶら下がって... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その13 私の小屋には先客がいた。 日本語は少しわかるという 七十歳ぐらいの朝鮮人で、 数日前、小屋の入り口の階段を踏み外し 足を怪我したと言い、包帯をぐるぐる巻きにして ベッドで横になっていた。 彼は子供の時、 父親とアメリカへ密入国、 季節労働者として カリフォルニア各地の農園を 季節労働者と... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その14 朝食が済むと ジョージの運転するトラックの荷台に全員乗り込み、 全員といっても十数人だったが、 葡萄畑の農道を もうもうと砂塵を上げながら、 猛スピードで東走り出した。 トラックの荷台は 夜明けの冷たい風をもろに受け 歯が合わないほど寒かった。 葡萄畑のはるか地平線に 太陽が昇り始め、 ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その15 葡萄畑には夜間、 たっぷり水が撒いてあり 足元は泥んこになっていた。 作業に慣れない私は 葡萄の蔓を抱えたまま 何度もひっくり返り、シャツもジーンズも あっという間に泥んこになった。 この作業を一時間も続けていると 腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど疲れた。 労働者を管理するジョージ... 続きをみる

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  • 1968のバイク世界一周旅行

    その16 夏時間のカリフォルニアは 八時を過ぎても明るかった 夕食が終わると、 サムの娘たちは事務所前で 即席の売店を開き、労働者相手に  ビール、タバコ、コカ・コーラなどを 売りはじめた。 年老いた労働者たちは夕食を済ませると 夕涼みを兼ね、売店の周りに集まり、ビールを飲みながら、 娘たち相手に... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その17 葡萄畑に囲まれた農園は 休日だといっても、 車がないと孤島で動きが取れなかった。 時間が有り余るほどの休日、 洗濯して時間つぶしする。 洗濯場は小屋の外にある、コンクリートの流し台でした。 日本では、ホテルなど特別な所でないと 蛇口から湯は出ない時代だったが、 アメリカではこのような農園... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その18 その日、食堂で、一日遅れでロサンジェルスから配達され日系新聞「羅府新報」に「ガ―ディナーのヘルパー求む、 比嘉ボーディング・ハウス」と広告があった。 ボーディング・ハウスとは下宿屋のことである。 すぐ、そのボ―ディング・ハウスに電話すると ヘルパーの日給は$15だと言う。 葡萄農園にいて... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その19 大体、ガ―ディナーの仕事は、 一軒の庭を一人でやれば一時間かかるが、 二人でやると その半分の三十分で終わった。 一日、何軒の庭を手入れするかで 収入も違ってくるので ガ―ディナーは皆仕事が速かった。 アメリカの平均月収が五百ドル前後の頃、 ガ―ディナーは、九百ドルほどは稼いでいた。 バ... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その20 事務所に行くと、 下宿屋の主人から電話があったと、 武藤さんという七十過ぎの 日系人が出迎えてくれた。 墓の葬儀一切は 白人のスタッフ三人が仕切っており、 武藤さんは八十エーカー(九万六千坪)の墓の芝刈りなど 清掃を契約で請け負っていた。 気持ちが悪いのか、 墓で働く者はいないらしく、即... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その21 私は休憩中、武藤さんが話す 過去の日系人の生活体験を聴くのが 楽しみだった。 こんな話もあった。 武藤さんは戦前 日本人学校の教師をやっていた。 真珠湾が攻撃され、戦争が始まると、 教師である武藤さんたちは スパイ容疑をかけられ、 すぐFBIに連行され、 家財道具を二束三文で処分し、 家... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その22 墓では、朝早く事務所に出て コーヒーを沸かす順番制があった。 皆、このコーヒー沸かしが嫌であった。 事務所は樹木に囲まれ薄暗く その前には火葬用に焼却炉があり、 事務所の壁には、火葬された身元不明の人々の 生ゴムで作られた何十ものデスマスクが ぶら下げられており、 その隣の作業場には 板... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その23 ロスアンジェルス一帯の地下層には油脈あり、 現在はどうか知らないが、 その油脈の上に建物があれば、 石油会社は、建物の持主に、その土地の広さに応じて 年間、いくらかの配当金を支払っていた。 墓を掘ると、いつも、ジワジワと石油がにじみ出ていた。 だから、埋葬日は白人スタッフの作業着は 油粕... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その24 12時、墓の仕事を終えると、 近道をするため 赤レンガの塀を乗越え、 走って下宿へ帰り、シャワーを取り 昼食を摂り、バス停へと急いだ。 英語学校は Wilshire BlvdとVermont Ave.交差点近く 静かな住宅街にあった。 車があれば十分ほどの距離であったが、 バスだと乗り換... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その25 英語学校に入学してしばらくしたある週末、 同じクラスの日本人学生に、ラスベガス行きを誘われた。 当時、ラスベガスは「博打」をするところとは 何とか知っていたが、 ラスベガスがどこにあるかも知らなかった。 彼らに教えてもらい、見様見真似で賭けたら 「ビギナーズ・ラック」というのか 千ドル近... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その26 私の一日のスケジュールは 朝早くから、夕方四時まで働けるようになり、 少しは収入も良くなったが、 仕事と学校と、時間的には寝るまで 英語学校時代と何ら変わらなかった。 大学では毎週一冊の教科書を読み、 レポート提出が義務づけられ、 その上、墓の仕事だけでは、月八十ドルの授業料が 払えない... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その27 一九六四年以後、 日本では、 東京オリンピックも終わり、 海外渡航自由化になり、 冷ややかなアメリカ人の眼にも気付かず、 今で考えられないような正装姿の 日本人団体観光客が 洋酒の「ジョニ黒」や「ジョニ赤」、 デズニーランドで「メイド・イン・ジャパン」の ミッキーマウスのぬいぐるみを爆買... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その28 しかし、予算を計算すると この金額ではとてもインドまで 車で旅行するのは不可能と分かった。 ある日曜日、 隣室のAさんにばったり会い、 雑談の中で、私の旅行の話になった。 すると、Aさんはバイクで行くことを勧めた。 彼は私と同年配、若いヤマハのロサンジェルス駐在員で、 彼の奥さんは、まだ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その29 アメリカ大陸横断へ バイクは単に 世界旅行に使用する交通機関 だと思っていた。 バイク旅行の経験もなく 何を準備すべきか考えることもせず、 金さえあれば、 必要なものは途中で買えば 良いのであって、 大事なことは、不測の事態に 如何に臨機応変に対処するかである。 アメリカ生活も四年、 す... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その30 ロサンジェルスの大盆地を抜け、 サンバーナーディーノから、ルート15の山岳地帯を 登りきると、雲一つない砂漠の中を一直線にハイウェイは 伸びていた。 五月のさわやかな太陽と風を浴びながら、 私のバイク「YMⅠ」風とエンジン音だけが支配する 砂漠の中を快適に走り抜ける。 それはライダーだけ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その31 翌朝、寝坊し、 ラスベガスのホテルを出発したのは 昼前だった。 ラスベガスからはルート15を離れ ルート93を東北へ約一時間行くと コロラド河をせき止めた フーバーダムに着いた。 このダムは黒部ダム同様 ダムの上が道路になっており、また ネバダ州とアリゾナ州の州境に なっている。 このダ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その32 当時、ルート66は大規模な拡張工事が行われていた。 1985年、古いルート66は、 インターステート40となったが、 その後、ルート66は歴史的な道路として、 再び世界の愛好者に脚光を浴びている。 グランドキャニオンへの入口 ルート66沿いのウイリアムスに 着いたのは夜だった。 翌朝は気... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その33 痛いのを我慢してルート66のフラッグスタッフへ ゆっくり目指したが、痛さに我慢できなくなり、 途中のモーテルへチェック・インし、 そのまま眠り込んだようだ。 ドアをノックしてカギを開ける音に 目が覚めた。 ドアが開き、年老いた黒人女性と一瞬目が合った。 彼女はこのモーテルの掃除夫だった。... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その34 ルート66 フラッグスタッフからルート66を東へ 五十六キロほど走ると、 単に「233」と記した標識の出口があり、 その横に「Meteo Crater(メテオ・クレーター)」と、 注意していないと見過ごしそうな案内板があった。 そうか、ここのことかと想像を膨らましながら、 出口を出て南へ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その35 ルート66を走り州境に来ると「Come Again」とか 「Welcome To・・・」と、ひと目でわかる大きな標識版 が必ずあった。 アリゾナ州の過ぎるとニューメキシコ州である。 この州は標高九百メートルから三千九百メートルと 高低差の激しい州で、 走っていると急に寒くなったり、 暑く... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その36 ルート66沿い、広い駐車のあるレストランで 食事を摂っていると、 大型のトレーラーが停まり、 中から赤シャツ、ジーンズにブルーのネッカチーフ首に巻いた オバちゃんが降りてきて、賑やかにガラガラ声で 親しそうにウェイトレスたちに話しかけ、 私と目が合うと「young guy(兄ちゃん)、き... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その37 ニューメキシコ州の東隣は オクラホマ州とテキサス州の二つの州に接しているが、 ルート66はテキサス州を通っている。 ニューメキシコ州の州境で時計を見ると、 午後五時を少し回っていた。 日没までには、まだ時間がありそうなので、 急ぐ旅でもないが、少しでも距離を稼ごうと走りだした。 テキサス... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界旅行

    その38 テキサス州に入ると西部劇映画によく出てくる 風車を広大な農園でよく見かけた。 せっかくのアメリカ大陸横断だから できる限り多く、日本ではめったにお目にかかれない アメリカらしい写真を撮ろうと思っていたが、 アメリカに四年も住んでいると、 アメリカの風景に慣れてしまい、 どれがアメリカらし... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その39 テキサス州の入ると、ルート66に沿って 途切れることなく遥かかなたまで、 金網の柵が伸び、その中は見渡す限りの広大な牧場で、 数え切れないほどの牛が、自分たちの運命を知る由もなく、 のんびりと牧草を食べていた。 その上には、透き通るような青く静かな空が広がり、 ジェームス・ディーン主演の... 続きをみる

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