2017年7月のブログ記事

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その74 バルカン半島を南下、ギリシャへ 食事を摂っていると、この地方の小さな新聞社の記者だという 中年の男が自転車でやってきた。 彼女の出したコーヒーを飲みながら、 記者は1時間ほど、私の米国留学やバイク旅行を始めた動機について聞き、明日の新聞に載せるからと言って去って行った。   記者が去った... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その75 ユーゴスラビア(現クロアチア) 当時、ユーゴスラビアは社会主義国家で、 私は「鉄のカーテン」と呼ばれえていた ソ連の社会主義国家と同じものだと思い込んでいたので、 どこからか秘密警察が外国人である私を 監視しているのではないかという、不気味な不安感と 恐怖感を抱きながら入国した。 入国す... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その76 アドリア海に沿って南下を続け、 ユーゴスロバキアとアルバニアの国境に着いた。 実際は情報不足の時代で、アルバニアの国境に着いた とはわからなかった。 目の前に川があり、長い橋が架っており、 橋のたもとに「アルバニア」と、 英語の立て看板があったので分かった。 橋の中央に銃を抱えた兵数人が... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その77 エーゲ海 ヒドラ島での休暇 ギリシャに入ると、オリーブ畑に囲まれた道路は舗装になった。 南下するにつれ天気は良くなり、アテネに着いたときは晴れていた。 私はYHに荷を解くと、早速、船会社に行き、 ニューヨークからリスボンに着いたとき、 船会社が私のバイクをリスボン港で下ろすのを忘れ、 私... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その78 彼女は、当時、英国で五本の指に入るという 画家の奥さんであった。 画家の主人は四十歳半ばで、あごひげを伸ばし、 麦わら帽子に半ズボン姿で、ヨットの甲板をホースで洗っていた。 奥さんは、いかにも関西の中年オバちゃんという、いで立ちで、 ヨットにロープを張り、洗濯物を干しながら、 我々に声を... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その79 中近東への出発 ヒドラ島からアテネのYHに戻った翌日、 横浜のKがドイツで買ったという中古車ワーゲンに 二人の日本人学生を乗せて着いた。 ドイツで知り合った三人は意気投合して この中古車でインドまで行くと言った。 イスタンブールへ出発する日が来た。 そのころヒッチハイカーの間ではイスタン... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その80 イスタンブールに着いた。 この町はボスボラス海峡を挟んで ヨーロッパとアジアの二つの雰囲気に囲まれたところで、 モスクやバザール、ヨーロッパ人とアジア人と、 ヨーロッパとは、また、違った雰囲気、景色というか、 アジア的匂いを持った町であった。  この雰囲気は、ユーゴから山越えをしてギリシ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その81 雨と寒さのトルコ横断 ヨーロッパ側とアジア側に挟まれた ボスボラス海峡には、まだ橋は架かっていなかったので、 フェリーで渡りアンカラを目指した。 車もほとんど走っていない、トルコ高原を東へ一直線に 貫いている道路を気分良く走っていると、 突然、牧草地から牛がゆっくりとした足取りで 道路へ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その82 季節は10月末になっていた, 黒海沿岸の町サムソンに 近づくにつれ雨風が強くなった。   黒海沿岸の風景は、冬の日本海沿岸のように鉛色に覆われ、 海は荒れ、びしょ濡れの私は、寒さに震えながら走った。 サムソンから黒海に沿って東へ、トラブゾンまで約340キロ、 対岸はソ連かという感慨を抱く... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その83 砂漠と強盗のイラン・アフガニスタン越え イラン・トルコ国境でハシシ(麻薬の一種)を所持していた ヒッチハイカーが逃げようとして、 イラン国境警備兵に射殺されたと聞いていたが、 粘土造りのイラン国境検問所の、簡素な部屋で簡単な入国手続き終えると、 私は兵士たちに紅茶やタバコなど、 親切なサ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その84 テヘランから東へ走り出す。 目指すはアフガニスタンである。 テヘランの町を一歩郊外に出ると あの近代的な都市がウソのように、 そこから先は水平線まで砂、砂だけの砂漠であった。   この先、本当に町がるのだろうかと不安になった。 確かめるために地図を広げると、 ボールペンでなぞったような線... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その85 悪戦苦闘しながら、どれくらい走っただろうか。 砂道の脇に屋根を太陽を遮るように、 むしろで覆った小さな掘立小屋があった。 周りには、この小屋以外、建物はなかった。 何となく「食堂」のような感じの掘立小屋であった。 私はバイクを停め、中にいたターバンを巻いた 中年男に確かめると、 「レスト... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その86 イギリス、ドーバーのフェリー乗り場で、手に入れた 詳細な地名が記載されていない地図であったが、 イランの砂漠を走っていても、必ず100キロ以内に「食物屋」と 「油屋(ガソリン・スタンド)」があることを知った。 砂漠では、イスラム教の式典に使われたものであろう思われる 古い煙突のような塔を... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その87 物の本などを読むと、シルクロードは崇高なものと 表現されているが、 私にとっては、ロサンゼルスからインドまでの、 過酷な道に過ぎなかった。 来る日も、来る日も、砂漠の砂塵を浴びながらの過酷な道で、 書斎でおいしいコーヒーを飲みながら、シルクロードの本を読み、 シルクロードを想像する人とは... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その88 体を洗ったのは、テヘランの街角の水道で洗ったのが最後、 水のない砂漠では、一週間も体を洗わない日があった。 慣れとは、恐ろしいもので歯も磨かず、体も洗わない、 茶店ではハエがティ・コップの周りに群がり、 ティとともに飲み込んで、それを吐き出すことが、 当たり前のようになったが、 いつの間... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その89 テヘランではめったに見かけなかったが、 メッシャドの女性はほとんど頭から足の先まで すっぽり黒い布(チャルド)で覆っており、 顔の判別も出来なかった。 近くで見るとチャルドは、思ったより厚めの布でできており、 暑くないのかと、他人事ながら気になった。 いよいよアフガニスタン入りである。 ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その90 無法地帯のに住む、アフガニスタンの人々は銃を作るか、 カードなどギャンブルをするしか、 収入源がないとその若者は言った。 危険だから、暗くならないうちに、 この無法地帯を離れた方がいいという 彼の忠告に従い、急ぎその場を離れることにした。 走りながら高台に目を向けると、十代前半と思われる... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その91 いつものことであったが、 集落に入り道端で休憩していると、 バイクや外国人である私が珍しいのか、 子供や何もすることがないのか、大人までが私を見世物のように 遠巻きに囲み眺められた。 日本でも江戸末期から明治初期、 外国人が日本の地方を旅していると 同じように、子供や大人までもが、その外... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その92 西のヘラートから南へ、米国の援助で作られた砂漠のハイウェイを アフガニスタン第二の都市カンダ―ルへ向かった。 そこから北へ向かうと首都カブールである。 当時、私が乗っていた乗っていたヤマハYM1のバイクは ガソリンとオイルを混ぜた「混合」が燃料であった。 イランでは「混合」の給油の場所も... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その93 通過した中近東の国々では、トイレを借り、 日本語の新聞を読むため、必ず、日本大使館を訪れた。 これらの国々では、現地の建物や暮らしぶりに比べ、 日本の大使館は立派すぎ、 私が強盗に襲われたのも無理はないと思った。 空っ風が紙くずや砂塵を舞い上げる、カブールの市内の道路は 舗装がはがれ、自... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その94 インド国境 入国不許可 イラン、アフガニスタンと砂漠地帯を走ってきた私は、 一応、町も区画され道路も整備され、 街路樹もあるペシャワールに着いたときは、正直ホッとした。 ペシャワールよりも驚いたのは、 パキスタンの首都イスラマバードの町だった。 1961年から建設が始まったという この巨... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その95   私のバイクは傷みが激しく、売れるようなバイクでなく、 一瞬、パキスタン・インド国境で捨てようかと思ったが、 ロサンゼルスからインドまで走ってきた バイクに愛着が湧いてきた。 そこで、インド国境係官の責任者に強引に会わせてもらい、 再交渉することにした。 すると、この責任者は、私がパキ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その96 ボンベイ 走行三万キロ インドに入ると道路には人と白い牛があふれ、 思うようなスピードで走れなかった。 茶店で休んでいると、ボロボロの衣類をまとった大人や子供が バイクを囲み、何か雰囲気のおかしい動きをしているのが目に入った。 私は飲みかけのティを置き、バイクへ走って戻ると、 彼らはバッ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その97 タージ・マハルで一人の日本人ヒッチハイカーから 12月15日、日本行きのフランス客船が ボンベイ(現ムンバイ)に入港する情報を得た。 旅の途中で、ボンベイまで行けば日本行きの船があると 聞いていたからボンベイを目指していたが、 その船の入港日までが確実だと知り、 今までは、ただ、日々のバ... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その98 1968年12月11日、道路という道路は人、車、白い牛、 それに「バクシーン、バクシーン」と手を伸ばし、 どこまでも、どこまでも、まとわりついてくる物乞いの子供たち、 それに自転車の後部に客席を付けた輪タクなどで 身動きもできないほど混雑しているボンベイ市内に入った。 タージ・マハルで出... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その99 ボンベイに着いた私は、帰国の船に乗るだけであった。 もう私には地図を広げ、道を確かめる必要もなく、 砂漠の中で車に遭遇することは、 強盗に逢うかもわからないので怖く、 時折、砂丘に上り、砂煙を上げ近づいてくる車を 確認していたが、それも必要なかった。 砂丘の上に立つと360度、視界は広が... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その100 フランス船「ラオス号」のボンベイ・横浜間の運賃は 約6万円で、当時の日本の平均月収ほどだった。 ラオス号には、マルセイユなどから乗り込んだという ヨーロッパで知り合った多くの日本人若者が乗っていた。 ニューヨークから大西洋を横断してリスボンまで乗った ギリシャの豪華客船と違い、気取った... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その101 香港に寄港し、町をぶらついていると、 前から来た中年の男性にとすれ違った途端、 その男は小さなビンを落とした。 ビンは割れ、中身の水分は道に流れ失せた。 その男性は、私が彼の体に接触したのが、 原因で病の娘のため、買ってきた高い飲み薬だ、 どうしてくれると、大声で怒鳴り始めた。 私は彼... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その102 旅の仕方にもいろいろある。 飛行機、鉄道、船の旅は快適さ、時間の節約 と利点はあるが、 自分の意志通り、自由に移動できない欠点もある。 バイクの移動は事故の危険もあり、 一般的に移動は昼間であり、 観た旅の風景は、出発地から到着地まで、 途切れがないという利点はある。 飛行機や鉄道の旅... 続きをみる

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  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その102 二年ほど前、旧友との飲み会の席で、 お互いの若い時の話が出始めた。 私の番になった。場の流れで1964年米国留学し、 帰国の際、バイクで世界を観て回ったことを口にした。 私にしては、自分の経験など、済んだ過去のことで、 気の抜けたビールの話をするような気分であったが、 米国留学とバイク... 続きをみる

  • 1968年のバイク世界一周旅行

    その103 おだてられ、ホイホイと1960年代の米国留学と バイク世界一周旅行について、 記念にと500部自費出版したが、 「人生の途中下車」というタイトルが悪かったのか、 タダで差し上げようと決めていたが 「読んでやる」という人は、ほとんどいなかった。 自己顕示欲が弱いのか、気が小さいのか、謙虚... 続きをみる

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