1968年のバイク世界一周旅行

その68 


スイス、ツェルマット


今なら、誰でも知っている、マッタ―フォルンの登山口
ツェルマット。
当時、私はそれがスイスのどこにあるか知らなかった。


マッタ―フォルンが美しい山であることは
写真などを見て知っていたので、
是非行ってみたいと思っていた。


人に聞きながらBrigの町から、登山電車の軌道に沿って、
スイス特有の民家が散在する小さな集落を
いくつも通り過ぎ、ツェルマットの町の入口に着いた。


すでに排気ガスが問題になりはじめていた頃で、
世界で最初ではなかろうか?
車やバイクは町へは禁止で、入口の駐車場に置き、
荷物は背負い、歩いて町に入った。


ツェルマットの町は小さく、ホテルの数も少なく、
今の三分の一ほどの大きさの町であった。


駅前の案内所で聞き、ホテル、土産物店などが軒を並べる
狭いメイン道路を、マッタ―フォルンを正面に眺めながら
五分ほど歩き、教会の建物を左へ曲がり、
川に架かる橋を渡って、数分、丘の上にあるYHに着いた。


四階建ての比較的新しいYHであった。
男女別の大きな部屋に三段ベッドが備え付けられ、
シャワーは水だけしか出ない共同使用で、
ヨーロッパのヒッチハイカーは使っていたが
日本人にはとても冷たく使えるものではなかった。


あの頃、日本の大学では学生運動が激しく、
大学は封鎖されていたので、
ノンポリの学生は運賃の安い、
ソ連のアエロフロート航空や、シベリア鉄道を使って多くの学生が
ヨーロッパへ押し寄せており、
ツェルマットのYHにも、多くの日本の若い男女が毎日宿泊していた。
このYHでの日々は、私の旅の中でも印象に残り、
10日間ほど滞在し、昼は日本からくる若者と
マッタ―フォルンを望む3、300メートルの
ゴルナ―グラートへ何度も登り、


夜はツェルマットの居酒屋で,当時、流行っていた日本の
フォークソングを皆で歌い、楽しいひと時を過ごした。


当時、このYHには人気者のJKという
京都の若者がバイトしていた。
彼はスキーのインストラクター資格を取るためドイツに留学しており、
夏場はこのYHでバイトしていた。
彼はその後、世界中をヒッチハイクし、
メキシコで13年間メキシコ料理を修行、
今は京都でメキシコ料理レストラン「エル・ラティーノ」を経営している。


日本女性で初めて、ヨーロッパからインドまで
ヒッチハイク旅行した水戸のMKもこのYHで知り合った。
彼女は今、水戸で日本店料理「開化亭」を営んでいる。


あの頃、20歳前後であった若者も
すでに70歳を越えたが、
感性と生き方は今も変わらない。